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繋がる波長・拡がる波長・拾う波長

嶋津さんxふみぐらさん(雑誌のタイトルかっ・・・)のオンラインCafeBarDonnaに参加させて頂いていた。

嶋津さんも仰ってたけれど、話している内容が「なんとなくわかる」という人達があつまっていた。静かで、心地よい沈黙もあった。もっくん(カジサキモトキさん)の紡ぐ音楽が強すぎず弱すぎず、そこにいるオンラインで繋がった、実際の距離はものすごくある人々の間を流れて繫いでいる。
嶋津さんの「空気の研究 Art de Vivre」が、確実に あるcertain(実感できる確実さのある)な空間を作り始めている。

私はよく物事を波長で捉える。タイミングと表現することもあるけれど、基本は共振しやすい波長を持っているか否か。昔物理かなにかで教わった、アレですよ。合わさると急激に振幅を大きくするもの。あるいは逆に、不思議なフラットに近い小さな振幅の波を間に抱え込むもの。(画像はイメージで、話の内容に合っているもの、という訳では無いです)

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出会う人も、書いたものに出会ってくれる人も波長が合う瞬間が会ったのだと思う。
今日のテーマだった「書けないとき」「肉体労働と頭脳労働」って話も、私の中では私自身の「波」と合わせて考えることがあるし、調子が悪いときはインターネット断捨離状態で自然の中に入って行くと その微妙なズレを自然のもつ音楽のようなものでチューニングしてもらえる(こともある)。

ふみぐらさんが「土を通して100mくらい離れた植物同士が交流している」というような話をされていたのもむちゃくちゃ納得した。そうなんである、植物も大地そのものも、下手すると風も空も水も、少しずつ違う波長で音(?)を出していて、それらが不思議な調和・・・いや、和音を作り上げている。土を感じるように自然の中に入って行くときは、そこで自分本来のチューニングをさせて貰っていると感じている。

月の満ち欠けも影響する。雲の多さもしかりだ。
私のエリアでは乾燥してるから日本のような「空気中の、見えないけど見えるような水の粒」の不思議なベースの音は滅多にないが、遠くないところで雨が降ると匂いや風の前にその水の存在感が届いてくる。細かな細かな、懐かしい波長を伴って。

私が自然の中で拾い上げるそれらの音のようなもの、自分の中に本来あるような基調となるテンポを、

嶋津さん・カジサキモトキさんのArt de Vivre 空気の研究 は、「音楽」という芸術によって 人工的にだけれどより自然のなかにいる私達を思い出させる場を提供するものなんだなと、

実は何度かの「試みの場」で感じさせて貰っていた。

今日のふみぐらさんの言葉・・・いや、正確にはふみぐらさんが言葉にするのを躊躇されたか言葉にならなかった「人間も自然の一部」の奥の奥の方のことは、まさにArt de Vivreが目指そうとしていたところと根を同じくしていると個人的には思っていた。

本当に面白い。
顕在意識に上がるか上がらないかは別として、そういうことを分かっていると思われるひとがあそこに集まるのも。

その言葉にしにくい波長を持ったもの・・・ふみぐらさんのおっしゃる「読まれない文章」、「上手な文章の反対側」にあるものってそういうものじゃないだろうか。それらはある意味押しつけもなく限りなく優しい。

(参加されていなかった方のために注釈するが、ふみぐらさんは東京で書かれていた頃より長野で書かれるようになってからのほうが「技巧としての上手な文章ということを考えると下手になってきた」と表現された。あるいは「私の読まれない文章」と。
でもそれは、当にふみぐらさんのおっしゃった「家の周りに居る虫」がフツウの田舎暮らしと、それが気持ち悪い、になる都会暮らしの差違で・・・あ、分かりづらくてすいません、私の中では繋がったんです・・・ 自然の一部である私達がふみぐらさんのテンポの文章に引き込まれる理由でもあると思っている。)

そしてそこには「読んでもらう数」の概念は届かない。言ってみれば「読んでもらう数」「バズる」みたいな2次元の話を、4次元の「自然の一部である人間を思い出しながら書く」というところに当てはめようというような違いを感じる。


少し話が飛ぶが 嶋津さんが提唱されていた「ライターの価値を上げる」とか「読まれるための少しの技術的努力をいれる」(有料記事ですがこちら)というのは まさにこの2次元と4次元をすこし橋渡しするライターになろう、という風に私には聞こえている。
「読まれる」を知ると文章が変わる(優しくなる)と仰っていらっしゃるのも、この次元差を感覚で受け止めていくからじゃないだろうか。私はそれを「読まれる、を知ると敢えて雑味(雑音)を入れる優しさ」として受け止める。

その雑味、雑音は カジサキモトキさんが入れてくださる意図的なアート、水のような間をつなぐ美しい何かではないが、自然の中に根底にある雑音であり雑味(虫がいる、というような)であり、

書き手は読まれることで身体の中のなにかが 背景音・雑音・雑味 に無意識のうちに気付き

それが文章に現れていくのではないか、と思っている。

イメージは クリアな単音だったものが 複雑な和音を伴い、共鳴しやすいものをもつひとが結果的に増える というものだ。うん、やっぱり自分の中の理解は波長を伴ってるなぁ。

冒頭に書いた「静かで心地よい沈黙」から自分の中で言葉や 抽象的にですら説明できなかったものが繋がった。

これはあくまで個人的な理解だけど、多分(少なくともあそこにいた人達は)どこかは他の人達とも共有できる考えじゃないかと思っている。


あまりに良い時間だったので私のエネルギーが一気に増幅されて 既に2200字以上を書いている。うーむ。

推敲したら、ふみぐらさんの仰っていたようなポン、と落ち着く場所に行けるかなぁ・・・(そしてそれはまだなんだけれど、まぁ今の気持ち、ということでこれで公開することにする。)


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