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自殺という「越権」行為について

有名人の自殺に限らず身近な人の自殺を知る時、いつも思い出す文章がある。

何年も前、朝日新聞の「悩みのレッスン」に載った文章だった。

おそらく中学生と思われる質問者は「なぜ自殺することがいけないのか」「なぜ生きなければならないのか」という問いを投げかける。それに対して回答者である哲学者永井均はこのように呼応する。

 社会には個人を排除する権利があります(代表的なのは死刑)。個人が社会とうまく適合するとは限らないからです。同様に、個人には社会から自分を排除する権利があります(代表的なのは自殺)。社会が自分とうまく適合するとは限らないからです。これは人間社会の不変の原理です。でも、死刑と自殺には、気づかれにくい一種の「越権」が含まれています。
 変な比喩ですが真っ暗な宇宙の中に一台のテレビだけがついているさまを思い浮かべてみてください。テレビの番組が社会にあたり、テレビがついていることが生きていることにあたります。どの番組も全然つまらないかもしれません。これから始める番組が面白いという保証もありません。でも、テレビそのものを消してしまえば、ただ真っ暗闇です。もう一度つけることはもうできないのです。番組の内容とテレビがついているということは、実は別のことです。ですから、「なぜ生きているのか」という問いは、番組の中身を超えた問いなのです。
 番組のつまらなさが、テレビがついていること自体の輝きを上回ってしまう場合もありうるでしょう。それでも、つまらない番組を見ないために、その世界の唯一の光を、無限に時間の中に与えられた唯一の例外的な時を、抹殺してしまってよいでしょうか。それは一種の「越権」ではないでしょうか。
 これが、人が生き続ける理由だと思います。

『新版 哲学の密かな闘い』永井均 岩波現代文庫 収録  

永井が言う「越権」が正しいのかわからない。

ただ、僕は誰かの自殺を知る時、真っ暗な宇宙でテレビがついていて、それを朧げな眼差しで見つめる自分を思い出している。



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