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老犬と生きる

その後

前回の記事を書いてから、あっという間に日がたってしまいました。

ひと段落ついたと思いきや、引き続きカオスな日々を過ごしていたのですが、振り返ってみると、なんだかんだでいい時間だったかも、と思える程度には元気になりました。

前回、久々に文章を書いてみたら、なぜか生とか死とか命とか、といった内容になってしまったのですが、現実が後から追いついてくるように、その後、愛犬が急激に衰えてしまい、色々と考えさせられました。

愛犬の最期と向き合う

我が家の愛犬は13歳、もう老犬なので、それなりに調子の良くないところもあります。

動物病院で処方してもらった薬を飲ませながら様子を見ていたのですが、薬を飲めば飲むほど元気がなくなっていくのです。

それでも、薬を辞めてしまうと、それはそれで辛いところもあり、悩みどころでした。

ちょうど私が風邪でダウンしたタイミングで、愛犬がまったくごはんを食べなくなり、水も飲まないし、自力では立ちあがれなくなるし、これはもう覚悟しないといけないのかな、と思いました。

私も夫も、愛犬の様子を見て覚悟を決めつつ、一緒に過ごせる時間が残り少ないのならどうしたいのか、ということに、自然と向き合うことになりました。

まず、愛犬が全力で拒否する薬を飲ませるのは、今後いっさい辞めることに決めました。

それによって、痛がったり苦しんだりすることもあるかもしれないけれど、薬以外にできることを試しながら、なるようになっていくものを受け止め、最期まで見守っていくことにします。

あとは、お互いできるだけ楽しく穏やかに、自然に倣って生きるのみ。

弱々しく呼吸しながら眠り続ける愛犬は、いつ逝ってしまってもおかしくないように見えました。

が、もういよいよか、と思った時に、夫がダメもとで、愛犬の大好きなおにぎりをあげてみたところから、なんだか様子が変わってきました。

ぺろりと1個平らげる。

…あれ?じゃあ、ちくわも食べてみる?

ぺろりと1本平らげる。

…あれ?

その日以降、少しずつ食欲が戻り、少しずつ回復を見せてくれています。

どうやら、もうちょっと生きることにしたようです。

良かった。

しかし、薬害、だよなあ。

愛犬は、薬を飲み続ければ命を削ることが本能的にわかっていて、全力で拒否し、自力で薬の毒を抜いていたのだろうと思います。

薬も、上手に付き合っていくことができるのなら、良いところもあるのかもしれないけれど。

できるだけ穏やかに、自然な終わりを迎えるために、我が家はやっぱり、ここで薬とは縁を断とう。

今を生きる

老犬との生活はそれなりに手がかかるので大変なこともあるのですが、それはそれで、なんだかいいのです。

夜中に何度か起こされることもあって、いつもちょっと寝不足だし、自分だけの時間を自由にとることも難しくはなったのですが、なぜか体感する時間の流れはゆったりとしていて心地良く、不思議とすごく、今を生きている、という感じがします。

目の前のことにフォーカスせざるを得ないのが、逆に良いのかもしれません。

目の前のことに集中して今を生きていると、必要なことは必要な時に起こり、必要なものは必要な時に受け取ることができるのだなあ、と感じます。

余計なことを考えたり感じたりする余裕がない時ほど、流れに身を委ねてしまえば、なぜか、なんとなくうまくいってしまう不思議。

委ねる、受け取る、面白がる。

それが、今を生きるコツなのかも。

好ましく思えることばかりでなく、好ましく思えないこともぜんぶ。

おわりに

年明けから、なんだかずっとスパルタ教育を受けている気分なのですが、なんなんでしょう。

そんな中で、気づいたこともあります。

気力体力が回復していないうちに、さらに削られて、もう限界、となった時、いや、ちょっと待てよ、と思ったのです。

なぜ限界と思うんだろう、何がそう思わせているんだろう、という考えがよぎり、ああ、全部自分で決めてるんだ、と気づきました。

限界って思い込みかも、と気づいたら、心の余裕がふわーっと戻ってきて、限界じゃない自分になりました。

そうか、限界って、こうやって超えるのか。

超えるというか、外す、だな。

と、気づいたものの、あえて外さない、というのも大事にしたいなと思いました。

なんとなく見たくなって、今、Netflixで幽遊白書(懐かしアニメ)を見ているのですが、そういうのがよく描かれていて、面白いです。

昔テレビでよく見ていたように記憶していたのですが、改めて見てみたら、さっぱり内容を覚えていなくて、そんな自分にびっくりしました。

自分が思っている自分って、案外当てにならないものですね。

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