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うらなう

2人の占い師

私は、あまり占いを信じる方ではないのだけれど、昔、2回だけ、街角の占い師の方に占ってもらったことがあります。

もう20年以上も前のことです。

当時、何かにとても悩んでいたわけでもなかったのですが、占い師に占ってもらうというのはどんな感じなのか、ただ、興味本位で体験してみたかったのです。

1回目は、東京のどこかのビル内の書店の脇に設けられた占いコーナーで、筮竹を使って占う易占いを体験しました。

何を占ってもらったのかは、綺麗さっぱり忘れてしまいましたが、ベテランの風格漂うおじさん占い師の方が、慣れた手つきで淡々と筮竹を扱い、あたたかく穏やかな笑顔でさらりとお話してくださったことは、いまだによく覚えています。

陰と陽の印がつけられた小さな木の棒を並べて見せてくれたのは、確か、この卦でした。

この白いところがね、ロープなの。
ポンと目の前に投げられたロープをね、あなたはただ、掴んで登っていくだけでいいの。

なるほど、なーんだ、簡単じゃん。

心がふわりと軽くなって、単純な私は、これから目の前にチャンスがやってきたら、何でも挑戦してみようと思いました。

2回目は、地元で行列のできる占い師としてちょっと話題になっていた占い師の方に、手相を見てもらいました。

表情ひとつ変えず、ボソボソと小さな声で話すおじさん占い師の方に、あなたは家庭運がない、と、バッサリそれだけを伝えられました。

運が向いてくるように何かできることはありませんか、と食いさがるも、こちらが救われるような言葉は何ひとつ言ってはもらえませんでした。

え?占いって、呪いなの?

心がずーんと重くなって、自分が家庭を築いている未来を思い描くことすら否定されたような気がして、悲しい気持ちになりました。

当たるも八卦当たらぬも八卦

私の人生で、占い師の方に占ってもらった経験は、この2回しかありません。

一回は、最高の思い出として、一回は、最悪の思い出として、記憶に残っています。

でも、両極端な経験をしたことで、占いというものに関して、自分の中で「もうおなかいっぱい」と思えたことは、幸運だったのかもしれないな、と感じています。

1回目の経験のおかげで、自分の目の前に現れるチャンス(メッセージ)に敏感に気づけるようになり、そうした機会を自らモノにするぞという気概を持てるようになりました。

2回目の経験のおかげで、一見説得力を持っていそうに感じられる他人の言葉を、必要以上に信じることに疑問を持てるようになり、自ら運命を切り開いてやるぞという気概を持てるようになりました。

どちらも、私という人間を育てるうえで、なくてはならないものとなりました。

当たるも八卦当たらぬも八卦。

自分の心さえ決まっていれば、占いが当たろうが外れようが、やることは変わりません。

心をなう

「占う」という言葉の語源は、諸説あるとは思いますが、私がいいなと思った解釈は、こんな感じです。

うら=心=外面に現れない内心
なう=糸や紐をより合わせ一本にすること

人は、どんな時に占いに頼りたくなるのか。

自分の心がバラバラになり、彷徨い、何かこれといった指針が欲しい時、なんじゃないかと思います。

たぶんみんな、自分の心を一番知りたいし、決めたいんじゃないかと思います。

私は、あまり占いを信じる方ではないとはいえ、占いが嫌いなわけではありません。

むしろ、その歴史や文化はすごく面白いなあと思っています。

易占いやタロット占いなんかは、偶然の産物からメッセージを受け取り、占い師の感性をもって読み解くシンプルさが好きです。

ただ、シンプルであるがゆえに、そういうことって、いつも自分でやってることだよなあ、と気づいてしまったのです。

だから、占いを頼ったり信じたりする必要性を感じていない、という方が、言い方としては正しいのかもしれません。

例えば、自分に迷うことがあった時、現状を打開するヒントが欲しいと心に問いかけると、ポンと、何かしらのカタチでメッセージが現れます。

心をリラックスさせて、常にピンとアンテナを立てておくと、自分に一番わかりやすいカタチ、かつ、一番良いタイミングで、メッセージが現れてくれます。

こういうことは、たぶん、誰の身にも起こっているはずです。

メッセージに気づいたら、あとは、微細な感情の揺れを手がかりに、自分の心が求めるものに向かって、まっすぐ進んでみれば良いのです。

心の化身

私が出会った2人の占い師を、私は、自分の心の化身だったと思っています。

最高の思い出も、最悪の思い出も、たぶん、私自身が求めたものなのでしょう。

2人の占い師に限らず、私の目に映る世界は、全て、私の心の化身なのだろうと思います。

不思議なことに、私には、他人が他人に思えないことが、よくあります。

この人も、その人も、あの人も、自分の側面なのだ。

と、なぜだかわからないけど、そう思うのです。

そしてそれは、誰にとっても同じことなのだろうと思っています。

私は、私の世界で、私だけを見ているし、あなたは、あなたの世界で、あなただけを見ている。

例えば、他人との関わりあいの中で、何か問題が起きたとします。

自分が傷ついた、もしくは、相手を傷つけてしまった。

そんな時でも、自分の感情の全責任は自分にあり、相手の感情の全責任は相手にある。

なぜなら、私は、私の世界で、私だけを見ているし、あなたは、あなたの世界で、あなただけを見ているから。

しかし、根っこは繋がっている。

近頃、こうした感覚が自分の中に定着してきて、物事がすごくシンプルに見えるようになり、心を整えやすくなりました。

自分の感情の全責任は自分にある、なんていうと、尻込みしてしまう方もいるかもしれません。

言いかえてみます。

私たちは、生まれながらに、全ての感情を味わい尽くす「特権」を与えられている。

私は、全ての感情は、敵ではなく、味方だと思っています。

どんな感情も、味わい尽くした先には、いつも必ず、広がる世界があるから。

様々な感情を味わい尽くした先には、ずどーんと、ひとつの大きな心が現れるような気がしています。

だったらいいな。

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