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自分の頭で考えられる人になる
「考える」がわからない
教え子の中に、礼儀正しく真面目で良い子な女の子がいます。
きちんと挨拶ができ、きちんと身なりを整えることができ、きちんと塾にも通えて、きちんと言うことも聞けるけど、勉強はやってもやってもなかなか伸びません。
伸びない原因は人により様々です。
彼女の場合は何がネックになっているんだろうね、と夫とああでもないこうでもないと会話しつつ、見守る日々を過ごしていました。
ある日、彼女の問題の解き方を見て、なるほどと思いました。
入試の予想問題を解いてもらったところ、思うように点が取れなかったので、宿題として家で復習してきてもらい、次回また同じ問題を解いてみようということになりました。
次回の塾で同じ問題を解いてもらったところ、見事に全問正解。
どうやって解いたのか確認してみると、答えを覚えてきた、とのこと。
なるほど!盲点でした。
彼女は、「考えて」問題を解いてはいなかったのです。
時間をかけてコツコツ勉強しているのに、テストで点がとれない理由はそこにありました。
何度もやって解き慣れている問題と、テストで出される問題は、問題の本質は同じでも、全く同じではありません。
「記憶力」で対応できる問題は解けるけど、「思考力」「応用力」で対応しなければならない問題は解けない、ということがおこっていたのです。
問題の本質をとらえ、自分の頭で考えて、答えに至る道筋を想像することができなければ、変化する問題の答えを導き出すことはできません。
彼女には、「考える」ということを、常に意識してもらうように声をかけてきました。
でも、「考える」とは具体的にどうすることなのか、彼女にはまだわかっていなかったのです。
「考える」を考える
自分の頭で「考える」ということがわかっていないのは、彼女に限ったことではありません。
私自身の中にも「考える」ことができていない部分はありますし、どんな人の中にも少なからずあるもののように思います。
言われてみれば、「考える」ってなんでしょう。
調べてみると、あれこれと思いをめぐらす、知識や経験などに基づいて筋道を立てて頭を働かせる、などと出てきます。
いや、わからん。
「考える」がわからない人にそんなことを言っても、より悩ませるだけです。
例えば今、私は「考える」を考えてみようとしています。ややこしいですが。
手始めに、自分を疑ってみました。
私が「考える」と思っていることは、本当に「考える」なのか?
「考える」とき、具体的に何をしているのか、自分の頭の中を観察してみました。
色々な経験や知識を頭に思い浮かべる
・あのときはああだった
・このときはこうだった
・誰かはああ言っていた
・誰かはこう言っていた
・あの本にはああ書いてあった
・この本にはこう書いてあった
仮説をたてて想像する
・こうしたらこうなりそう
・ああしたらああなりそう
自分の感情を見つめる
・どきどき
・わくわく
・嬉しい
・悲しい
・イライラ
・むかむか など
一口に「考える」と言っても、頭の中ではものすごい量の情報がかけめぐっていますし、心の中でも色々な感情がめぐっています。
自分の頭で考えて行動するというのは、簡単なようで、案外難しいのかもしれません。
まず、自分の頭と心の中にある膨大な量の情報の中から、必要だと思うものを選び、必要だと思わないものを捨てなければなりません。
自分の頭と心の中にあるものは、当然他人にはわからないので、自分にしか選べません。
何を選び、何を捨てるのか、その選択の責任は自分にしかおえません。
頼れるのは自分だけ、ということなので、それ相応の勇気が必要です。
「考える」を楽しむ
「考えることを放棄する」という表現があります。
これを私なりに解釈して言いかえてみると、「一般的な考えや他人の考えをそのまま自分の考えとして採用する(または採用しない)」でしょうか。
となると、自分の頭で「考える」には、まずは一般的な考えや他人の考えを疑ってみることが必要です。
自分の考えは、それと同じ考えなのか?違うのか?
先に書いたように、自分の頭で考えることには責任を伴い、いちいち少しの勇気を必要とされるので、考えるテーマによっては逃げたくなることもあるでしょう。
しかし見方を変えれば、情報の取捨選択次第で、無限の可能性が広がるということです。
私は「考える」のが好きです。
趣味は考えること、と言っても過言ではありません。
考えるたびに、新しい発見があったり、それによって見える世界が一変したり、自分にとって大事なものやそうでないものが明確になったり、感情を揺さぶられたり。
自分の中に、常に最新のエンターテイメントがある、というような感覚です。
考えることは、時に勇気を必要としますが、もっと自由に気軽に楽しんでみれば良いのだと思います。
考えるだけなら、誰にジャッジされることもありません。
ただ、自分の考えを自分自身でジャッジする癖があるのなら、手放すことをおすすめします。
この考えは正解なのか不正解なのか
自分の心が納得できるものこそ、自分にとっての正解であり、他人が口をはさめることではない、と私は思っています。
「考える」に正解はない
礼儀正しく真面目な良い子ほど、どうしても正解を求めてしまいます。
学校のテストには正解がありますが、自分の頭で考えて正解を導き出せるようになるには、自分の考えと正解の考えをすりあわせる過程を踏むことが不可欠です。
自分の考えと正解の考えを比較しなければならないので、どうしても正解の考えではない自分と向き合うことになります。
正解が欲しい
正解の考えではない自分を知るのは怖い
という子にとっては、とても勇気のいることでしょう。
正解の考えではない自分はダメなんだ
というわけではないのだと知ることができれば、「考える」との間にあるブロックははずれると思います。
とはいえ、自分を知るというのは、一番勇気がいりますね。
子供も大人も、そこは同じだなと思います。
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