静寂の中で
今を生きる、ということをしていると、なぜか言葉がやってきません。
なので、もう私は文章を書きたいとは思わないのかもしれないなあ、と思っていました。
が、今朝フォロワーさんからコメントをいただいて、喜びがじんわり心に染み渡り、また何か書いてみよう、と思ったのでした。
我ながら、単純です。
意気込んで何かしようとしなくても、やりたいことややるべきことは「やってくる」ものなんじゃないか。
「全体の流れに動かされる私」を感じてみるとしよう。
近頃は、そんな生活実験をしています。
自ら書きたいとは思わなかったのに、書いてみようと思わされた。
今朝は、そういうものがやってきました。
そうして動かされるままに、今、文章を書いています。
しかし、なぜ、ただただ今を楽しんで生きていると、言葉がやってこないのか。
考えてみると、文章を書く時は、過去や未来に想いを馳せているのです。
今この瞬間には、たぶん、言葉はないのです。
言葉を綴る時、心はいつも別のところにある気がします。
だから、言葉を知らない赤ちゃんや子どもや動物ほど、今に生きられるのだろうなあ。
言葉を覚えすぎた人間から見たら、それらの在り方や表現は拙いものに見えるかもしれないけれど、そう見えるからといって、そうだとは限りません。
赤ちゃんの頃の記憶はないし、他の動物になったこともないけれど、今に生きる体験の瑞々しさ、それが大人の比ではないことは、かつて子どもだった私にも想像はつきます。
失ってしまったものは多い、と落胆することなかれ。
赤ちゃんや子どもはすぐには大人になれないけれど、私たちはその気になれば、心はすぐさま大人にだって子どもにだってなれます。
福山雅治さんだって、そう歌ってます。(生きてる生きてく)
ここまで書いて、「言葉は時間を操る道具」という言葉が浮かんだので書いてみましたが、どういうことなのか説明はできません。
なんだろう、うーむ。
と、自分が意図しなくても、日々何かは「やってくる」わけで、「全体の流れに動かされる私」であっても、意外と退屈はしないものなのだなあ。
と感じている、今日この頃です。
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