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還ろう

先日、久々に大好きな友達と会って、楽しいひと時を過ごしました。

会えて嬉しかったし、たくさんおしゃべりできて楽しかった、のだけれど。

充実感がない、ということに気づいてしまい、なんだかやるせない気持ちになりました。

同時に、普段、夫と愛犬と、またはひとりで過ごす時間が充実しすぎていることに、気づいてはいたのだけれど、やっぱりそうなのか、と再認識してしまいました。

私には友達は必要ない、ということなのだろうか。

でも、彼女のことは大好きだし、きっと、そういうことじゃないんだよなあ。

私は、ただただ平凡な主婦の日常を生きているだけなので、たまに、いつもとちょっと違った刺激が欲しくなったりします。

そんな時は、刺激を求めて外へ出かけたりもするのだけれど、その度に、いつもの日常の方が刺激的だ、と感じてしまい、またいつもの日常へ戻る、ということを繰り返しています。

傍から見れば、私のいつもの日常など、つまらないものに見えるに違いないのだけれど。

自分の内側を探究するのが唯一の趣味とも言える私にとって、ただただ自分の内側を旅していられるいつもの日常こそが、何よりの娯楽なのです。

たぶん、自分と深く繋がる充実感以上のものは外にはない、ということなのだろうと思います。

自分自身とは、自ら分けた自らの身体、と書きます。

友達と会っても、誰と会っても、何をしても、そこに映るものは全部自分自身だと感じるし、その都度自分をより深く知ることができるので、最終的には、充実感を得ることはできるのだけれど。

今を生きているようで、過去を生きているような気がするのです。

世界は自分自身だ、という体感を得た今、たぶん、私はもっと意識的に現実を創造したいし、それを実感する体験をしたいのだと思います。

前回の記事で、私自身の片付けに対するちょっと異常なこだわりについて書きました。

それと向き合い、私の内側の世界観が変化したことで、その後、私の両親は、当然のように自らせっせと片付けをはじめました。

私は、そういう世界が見たかったし、そういう世界で生きたかったのです。

自分の思い通りに事が運ぶことが全てではないけれど、自分の心の奥底にある望みと現実が一致している時の充実感は、やっぱりちょっと格別です。

過去の記憶が現実化した世界を自動的に生きるのではなく、自分の心が本当に望む世界を現実化させ、それに気づきながら生きたい。

と、ここへきて、人生に対してようやく欲が出てきました。

私には友達は必要ない、わけではなく、友達とどんな関係性でいたいか、その中でどんな自分でいたいか、どんな時間を共有したいか、そういったことを貪欲に明確に望むことが、私には足りなかったのだろうと思います。

夫と愛犬と、またはひとりで過ごす時間が充実しすぎているのは、最低限の生活エリアの快適性については、自分の望みを貪欲に明確にし、こだわって求め続けてきたからだろうと思います。

過去の記憶をひとつひとつ紐解き、自分の内側が平穏になっていくにつれて、訳のわからないこだわりはどんどん消え去っていきます。

こだわりがない状態も、平穏で快適ではあるのだけれど、喜びや充実感もそれなりになってしまうので、そうなると今度は、なんだか物足りないのです。

心の奥底にある望みに素直になった時、世界は常に自分の味方だったのだ、とわかります。

大好きな友達と過ごし、楽しかったはずのひと時に充実感を感じられなかったのは、私の望み方がその程度だったからに他ならず、言いかえれば、望みはちゃんと叶っていたし、望む通りに世界は創造されていたということです。

なんだか心がざわざわする、そんな時は、私に還ろう。

答えは必ず、自分の中にあるから。

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