体験を選ぶ
驚く
前回、「片付ける日々」という記事を書きました。
その後、実家の一部のエリアの片付けがひと段落したので、さて次はどこを片付けようかな〜、とあちこち見てまわってみたところ、まだまだ先は長いことがわかり、軽く「絶望」しました。
しかし、父も母も片付けに対して前向きになってきているし、それぞれの考えとペースがあるし、寄り添ってぼちぼちやっていこ〜、と気持ちを切り替えました。
後日、別の用事で実家に寄ったところ、父も母も、片付けの真っ最中。
私が予定していなかった場所を、自ら積極的に片付けている両親を見て、驚きました。
こんなことは、これまではなかったことだったからです。
どうしちゃったの?
眺める
この時の「驚き」が、自分の中では強烈だったので、なぜ強烈に感じたのかが気になって、自分の中をしばらく眺めていました。
きっと何か、気づくべきことがあるんだろうなあ。
眺める意識を持ちつつ、週末は、スタジアムへサッカー観戦に行ってきました。
道中、電車に揺られ、自分の中と、流れる景色をボーッと眺めていたら、ふいに、ある感覚が広がりました。
私という意識はここにありつつ、全体の意識になって、なんて豊かな表現力なんだろう〜、という喜びに震える、という感じ。
私という「個」の意識から見る、善や悪など様々な価値判断がなされるあれこれも、「全体」の意識から見れば、全て「喜び」でしかないのだなあ、と感じました。
そうこうしているうちに、スタジアムに着き、いざ、サッカー観戦。
この試合で勝てばJ1首位に立つ、という、選手にとってもサポーターにとっても、気合いの入る試合でした。
結果は、稀に見る審判のジャッジにより、惜しくも引き分け、首位浮上ならず。
ホーム戦だったので、サポーターの数も熱も相手チームを上回っていたのですが、有利に見える状況にあっても、それが有利に働くとは限りません。
「集団意識」というものは難しいものだなあ、としみじみ思いました。
「集団意識」とはいっても、それは、「個人意識」が集まったものです。
「個」が「集団」としてひとつになるための「キッカケ」と、そこから生じる「ムード」って、すごく重要だなあと感じました。
「ムード」をつくるためには、集団の「焦点」を合わせる「キッカケ」が必要です。
世界をコントロールしている人たちは、これを熟知していて、良くも悪くも、上手に「キッカケ」を起こし「ムード」をつくっています。
前半は悪くなかったのにな。
この日の試合は、失点と稀なジャッジにより、選手もサポーターも、怒りや絶望に「焦点」が合い、感情にのまれてしまった、ように見えました。
ふむふむ、なるほどなあ。
繋がる
全く関係ないように思えるそれぞれの出来事が、私の中で、一本の線で繋がりました。
両親の片付けに対する態度の変化、その「ムード」をつくる「キッカケ」になったのは、前回の記事に書いた、庭にあった巨大な無線タワーが解体されたこと、だろうと思います。
これは、そこに住んでいた両親と私にとっては、とても大きな変化だったのです。
私も、実家へ行くたびに、見慣れた景色のはずなのに、いまだに見慣れない景色を見ているかのような印象を受けるほどです。
あんなに大きなものを片付けるなんてムリだよ…、と諦めていたのに、片付けることができた。
このことが、両親を、「できない世界」から「できる世界」に連れていってくれたのかもしれません。
「できる」に「焦点」が合っている、そんな「ムード」があるのです。
選ぶ
ぐっと「個」に意識を絞れば、どっぷりとその感情に浸れます。
ぐわーんと「全体」に意識を広げれば、あらゆる価値判断を超え、全てが喜びなのだと気付きます。
何が良い、何が悪い、というものではありません。
そういうふうになっているものを、現実世界で、どう使うか。
意識の持ち方ひとつ、焦点の合わせ方ひとつ、なのです。
無意識にコントロールされることを許しているのは、自分です。
自ら意識的にコントロールできるものなのだから、「個」の意識においても、せっかくだから「喜び」を選びたい、と私は思っています。
せっかく、体験できる肉体を持っているのですから。
選び、それを受けとることを自分自身に許可すると、タイミング良く、じゃん!と目の前に現れます。
心を開けば、扉が開きます。
とはいえ、「全体」から見れば、全てが「喜び」なので、何を選んでも大丈夫です。
さて、私は、何を体験しようかなあ。
あなたは、どんな体験を選びますか?
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