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ひっくり返る

「私」とは、こんな人間です。

誰にでも、セルフイメージというものがあると思います。

趣味、嗜好、肩書き、経歴、属性、こだわりなどなどが、アイデンティティを形成しています。

あなたは、どんな人間ですか?

と聞かれたとき、私は、上手に「私」を説明できそうにないなあ、と最近よく思います。

自分で語るより、それぞれが感じるままに認識してもらえたら、それでいいかな、と思っています。

全てが、変化する可能性を持っているし、永遠にこだわっていたいものも特にないし、改めて考えてみると、「私」と言えるものは、これといってないのかもしれません。

「私」という意識がある、それだけなのかもしれません。

元々執着心というものが薄い私が、ただひとつ、ずーっと飽きずに続けられていること、むしろ辞められなかったことは、心の探究です。

なぜ、外側の出来事にあまり興味が持てなかったのか、今ならわかる気がします。

アイデンティティの必要性を見直し、そうじゃなくても良さそうだ、という気づきを得て、ひとつひとつ自由にしていくと、心の雑音が消えていって、世界が静寂に包まれます。

近頃は、世界が、くるんっ、とひっくり返ってしまったような、妙な感覚を覚えます。

ようやく、この世界の見え方に、目と心が慣れてきました。

経験を積みレベルアップを重ねてそこへ至る、という認識が、そもそも違っていたみたい。

すでに在るという事実を覆っているものを取り除き、それで在る、という認識になると、くるんっ、と世界がひっくり返ります。

思考が現実化するスピードが、目の前にいる人と会話しているくらいのスピードになりつつあります。

自分とそれ以外、という感覚が薄れつつあります。

なにこれ?と戸惑いつつも、そりゃそうか、と納得してしまう、という、妙な気分で過ごしている、今日この頃です。

何をどう言葉にしたら良いか、そもそも言葉にしたいのか、したくないのか、それすらよくわからずにいたのですが、やっぱり何かは書きたいなあと、ちょっと尻尾をつかまえたので、書いてみています。

リラックスして、心をオープンにすればするほど、ありあまるほどのサポートを受けとれるというのは、疑いようもない事実です。

大阪のおばちゃんにムリやり飴ちゃん掴まされる、みたいな現実の現れように、なんだかすごく喜んで可愛がってくれているんだなあ、と感じ、心がほっこりしたりしています。

見えないけど、いるんです。

あちらこちらに、熱烈なサポーターが。

そういう時代なのでしょうか。

難しく考えず、ばかになっちゃった方がおトク。

そんな気がしています。

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