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「自衛すべき」はなぜ悪なのか?


1. 被害者側に一方的な負担を強いる上に効果が限定的だから

これが最も大きい理由。「自衛すべき」は、被害者サイドに対してのみ一方的な負担を強いる
そもそもなぜ自衛せざるを得ないのか?を考えてみよう。加害者サイドが加害するからだ。
家に鍵をかけるのもそうで、たとえば住民全員が顔見知りで安全なコミュニティなどでは家に鍵をかけないのが一般的な場合もあるそうだ。

自衛が必要なのは、加害から自らの身体や財産を守るためであって、出発点は「加害」である。

自衛することで確かに被害を軽減できる場合もあるだろう。だが、効果がなかったり(実際、性暴力被害と服装には関係がないという。2023年には実際に被害に遭った際の服装に近いものを展示した展示が開かれた)、加害者サイドも自衛をすり抜けるようなやり方を編み出したり(これは性暴力を中心にあらゆる分野でみられる)する。加害者側を抑止するわけではないのでその場しのぎかつ効果があるかどうかもわからない、応急処置レベルだと言ってもいい。

家に鍵をかけたとしても、窃盗犯はピッキングをしたり、窓を割ってでも入ったりするだろう。セキュリティホールはいくらでもある。
要塞レベルの防護をするのでなければ限界があるし、個人でそれを行うのは非現実的だし、何より「なぜ被害者が一方的にコストをかけて負担しなければならないの?」という話になる。

自衛すべきだと言う前に、まず加害を抑止するのが加害者サイド(強者サイド)の人間の役割だろう。
被害者サイド(弱者サイド)から言うよりも、加害者サイド(強者サイド)から言うほうが聞き入れてもらえる余地があること、そしてこれ自体が被害者サイド(弱者サイド)に比べて権力や物理的な強さなどにおいて優位な立場にあることが多い加害者サイド(強者サイド)としての責務(ノブレス・オブリージュ)であるからだ。

それすらも諦めて「すべての人が加害しないわけではないから自衛しないと」と加害者サイドが言うのは、はっきり言って加害への加担と同じだ。

2. 言う先が間違っている(自衛が必要になる原因を作っている加害者に対して言わないから)

1.と重複する内容だが、加害が起きるから自衛が必要になっているのである。確かに自衛をすることで被害を抑えられることもある。だが、これに対して「自衛が足りないのが悪い」などと言うのが「自衛すべき」論者である。

もちろん、「加害者が悪いけど」と前置きする例もある(特に道路交通分野において顕著)。だが、被害者側の「自衛不足」を論うのは、本来悪くない(落ち度がない)はずの被害者サイドに落ち度を持たせ、加害を透明化する効果がある。

被害者に対して「あなたは悪くない」と言うべきところを、「加害者が悪いけどあなたも自衛が足りないのが悪い」と言うと、被害者は「私の自衛が足りなかったせいで被害に遭った」と自責の念に駆られるようになる。これは今なお「自衛不足」が被害の原因であるという社会通念が根絶されていない性被害においてよくみられる。
そして被害を減らす効果も限定的ないし極小である。なぜなら加害者は変わらないからだ。

被害者に対して言うなら、自衛と関係のない誰が見ても明らかな落ち度があったりでもしない限り、「あなたは悪くない。どうか自分を責めないで」だ。そもそも「自衛すべき」論者の言う「自衛すべき」の内容は、被害者にとってはとっくに存じている内容であり、余計なお世話であることが多い。
知らない人についていかない?そんなの余計なお世話だ。知らない人の側が強引に抗拒不能にして加害に及ぶとか、そもそも知人が加害者の場合だって少なくない。

自衛すべきと言う暇があるなら、加害を非難すべきだ。意味がないと思う人もいるかもしれないが、言わない、もしくは被害者に「自衛すべき」と言うよりは効果がある。加害が起きるから自衛が必要になるためだ。

なぜ飲酒運転が大きく社会問題化し、社会通念としても「悪」という認識が広まり、以前に比べて大きく減少したかを考えてみよう。
人々が飲酒運転に対して声を上げ、行政も人々の声を受けて飲酒運転の厳罰化に踏み切り、加害者となるドライバーへの啓発や取り締まりを強化したためである。決して「深夜は飲酒運転のクルマが多いから夜道を歩くのは控えましょう」などと歩行者に自衛を求めたからではない

被害を減らすなら、やることは加害を非難すること一択である。

3. 加害行為を擁護し加害者に加担するも同然だから

ナンパ師が、自らの行為を正当化するために「女の子が自分の誘いにホイホイ乗るから」を挙げた例があった。言い換えれば「女の子の自衛が足りないから」という論法であり、すなわち「自衛すべき」論自体が加害者の論法と同じである。ゆえに、主張する者の意図に関係なく加害への加担という効果をもたらす。
中には自らが加害をしていて、自己正当化のために用いている例もあるだろう。

これは「加害者の加害」より「被害者の自衛不足」を原因として考えるものであり、この意見を聞いた被害者はますます自らを責めるようになり、加害者は図に乗って自らの行為を正当化するのである。こうなれば加害者の罪の意識は薄まる。加害が減る方が不思議だ。

被害者が自衛することで被害が減ったとしても、加害者の意識が変化するものではないからだ。

一例を挙げてみよう。
道路交通では、すでに「歩行者が自衛すること」を前提とした運転をするドライバーが少なくない。横断歩道の脇に歩行者が立っているにもかかわらず通過するのがその一例である。これは「横断歩行者妨害」という交通違反に該当し、近年は取り締まりが強化されているが、今なお横断歩道で歩行者が轢死する悲惨な事故は度々起きている。

ここで、「自衛すべき」論者は、「死ぬのは歩行者なので歩行者は左右をよく確認して自己防衛すべき」などの論調で一方的に自衛を求める。
前置きのように「クルマの違反が悪いけど」と付けることもあるが、ドライバーに対して具体的に「道交法に則って横断しようとする歩行者がいないことが明らかでなければ徐行し、横断しようとする歩行者がいる場合は横断歩道手前で停止すべき」などと言っているのでなければ、明らかな加害への加担である。
ただ、仮に言っていたとしても自衛を強いていることには変わらない。

加害者となる属性は、被害者となる属性よりも強い立場にあることが多く、自らが被害に遭うことが少ないために他者を傷つけることに対して鈍感な傾向がみられる。また、その立場の強さ故に同じ加害者属性の人間が犯した加害によって、加害者属性そのものの印象が悪化することも少なく、悪化したとしても実害は矮小である。
このため、加害者属性は同じ属性の加害者に対して啓発・非難する意識が希薄であり、被害者に対して自衛を求める傾向があるが、これは「強者仕草」「加害者仕草」であると言っても過言ではないのだ。

被害に遭いづらい強者であるからこんな傲慢なことが言えるのだ。
まるで「捕食されたくないなら身を隠せ」とライオンが捕食対象の動物に向かって言うかのように。

被害に加担せず、同じ加害者属性の者の加害行為を、同じ属性の立場から非難すること。これこそが被害者を減らし、加害者も減らすために必要な行動である。

連帯責任のような形で加害者属性の者全体に不利益が生じるような仕組みにするなど、自身にも火の粉が降り注ぐシステムにすれば効果的に意識が変わるだろうが、加害者属性は構造的にも強者であることが多いため容易ではないかもしれない。
でも、一人だけでも意識を変え、加害行為に声を上げるようになれば、少しでも抑止力になる
加害も被害も減らすために、まずは加害への加担をやめるところから始めてほしいと切に願う。


付記(歩行者と自動車の事故と自衛)

自動車が急増した1960年代から70年代にかけて、「交通戦争」と呼ばれるほど交通事故死者が急増したことがあった。
Wikipediaの「交通戦争」の記事にはこのように記されている。

東京都では1964年の東京オリンピックに向けた大規模な工事が始まり、法律で定められた速度以上で暴走する交通犯罪走行トラックの急増とともに、大勢の児童らが交通事故により犠牲となったことから、都は1959年(昭和34年)から緑のおばさん運動を開始、23区内の小学校近くの交差点で黄色い手旗を振ることで子どもたちの安全確保に努めた。しかし現在でも、速度超過や横断歩行者等妨害等違反の自動車が日常的に見受けられるほど安全運転意識の欠落が見られる状態であり、交通監視員がいない状態でも自動車に安全運転をさせる施策の整備が急務な状態にある。

また、警察は交通事故の危険から身を守るための知識や技能を習得することに重点を置いた交通安全教育を行うようになった。全国交通安全運動では「歩行者の安全な横断の確保」を運動の重点とした。1960年(昭和35年)頃には「止まって、見て、待って歩く」習慣を身につけるための指導が行われ、1965年(昭和40年)前後には「横断の際、手を上げて合図する運動」が推進されたが、自動車による速度超過違反や横断歩行者等妨害等違反の蔓延もあり、効果は限定的であった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%80%9A%E6%88%A6%E4%BA%89

ここでデータを見てみよう。

歩行中死者数・横断中死者数と信号機数の推移(昭和30~55年)
平成17年警察白書(https://www.npa.go.jp/hakusyo/h17/hakusho/h17/html/G1010000.html)から引用

歩行者側の「自衛」に基づいた運動や教育が行われたものの、歩行中・横断中の死者ともに昭和45年まで一貫して増加傾向にあったことがわかる。
いくら歩行者側が自衛したとしても、このケースにおいて加害者となるドライバーの意識が変わらなければ、歩行者側に道交法にも規定のない一方的な負担を強いるだけで、限定的な効果しかないばかりか効果がないことがわかる。

「死ぬのは歩行者だから左右を良く見て自己防衛すべき」と言ったところで、これである。はっきり言ってドライバーの怠慢と違反を正当化するものにすぎないと言えるのではないだろうか。

Wikipediaから再び引用する。

1970年(昭和45年)の死者数は1万6765人とピークに達したが[3]、その後は1973年(昭和48年)に発生したオイルショックの影響で日本国内の自動車保有台数の伸びが頭打ちとなったことに加え、交通弱者である歩行者を交通事故から守るため、歩道やガードレール、横断歩道橋の整備を積極的に行ってきたことや、交通違反者に対する罰則強化、交通安全運動を推進したことが成果として現れ、1979年(昭和54年)には死者8048人とピーク時の半分にまで減少した[2]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%80%9A%E6%88%A6%E4%BA%89

つまりは、ハード面での安全確保と、ドライバー側への罰則効果が成果として現れたものと考えられる。上述したデータでも昭和45年をピークとして減少に転じていることがわかる。

歩道や横断歩道橋の整備により車道を歩く歩行者が減少したことも原因として挙げられるが、やはり「歩行者に自衛を求めるやり方は間違っている」ということがデータにも現れている。

近年に入りようやく見直され、横断歩行者妨害の取り締まりが強化され、停止率も増加傾向にあるが、一部警察では「手を上げて横断すること」を推奨する運動も行われているという。交通戦争期と異なりドライバーへの取り締まりとの「併用」であるから、比較的公平ではあるが、そもそも道交法に規定のない「手を上げて横断」などせずとも歩行者が安全に安心して横断できる環境を整備することが交通管理者でもある警察の役割ではないだろうか。



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