高校3年、齢17にして学習性無力感を獲得

こんにちは、鳥(@tri0142)です。
前回の記事は、高校2年生の頃のエピソードでした。

今回の記事では、高校3年生から高校卒業までのエピソードについて執筆します。
※後日、追加加筆予定です。

1. 理転の限界

高校3年になると、辛い時代を迎えることになる。
数学ⅢC・物理Ⅱ・化学Ⅱが一気に押し寄せたのだ。
しかも学校で習うわけではないから、マスターしようと思えば非常に大変である。
さらに、ここは理系クラスの高校生でも苦労する箇所である。
僕が乗り越えられるのだろうか。
今思えばかなり難しいことだと思うが、それでも頑張ることにしてしまった。
「自分の進路を学校の方針に左右されてたまるものか!」というなにくそ精神があったからである。

しかし、現実は過酷であった。
数学Ⅲの内容を事前予習で十分に理解できないまま予備校の授業を受け、授業を受けてもわからず、つまづいた。
物理・化学も最初は大丈夫だったものの、夏前になるとつまづいた。

模試の成績も散々だった。
マーク模試では、物理で22点、偏差値39という記録を出してしまう。一方化学は53点で、偏差値51あったが、これが受験期における化学の最高偏差値となってしまった。
数学でもⅠAとⅡBを合わせて80点程度が限界だった。
一方文系科目は比較的良い点数で、英語では145点(200点満点)をとった。国語でも100点は超えた。

こうなることは理転する前からわかっていたのだが、
自分のやりたいことは理系の分野であったし、1年のときの適性検査では「明らかに理系に向いている」と書かれていたから、やっぱり文系に戻すなんて考えられなかった。
しかし、結果が現実を物語っていることは自明であり、モチベーションを削がれていった。

さらに別のマーク模試の結果がそれに追い討ちをかける。
なんと・・・・現代文で失敗し、国語が83点しかとれなかったのだ。理科もあのときの結果より悪くなった。
勉強しても意味があるのか、勉強して何が得られるのか疑問に思えてきた。

唯一の光は、英語であった。
この模試では全国偏差値67、校内偏差値96を記録した。校内偏差値としては史上最高記録で、成績表をはじめて見たときは少しテンションが上がった。

しかし、テンションが上がってもそれは一時的なものであった。

高校の理不尽な環境下での忍耐に加え、新たな範囲の独学での勉強と文系科目の両立はただでさえ困難なのに、結果が付いてこないとなるとモチベーションの維持はもはや不可能であった。
こうして「勉強しても辛いだけで意味がない」脳が学習した結果、中学2年以前の考え方に次第に回帰していった。
6月頃には予備校の授業を休みがちになっていき、再び文系に戻すことが頭をよぎっていた。

2. 学習性無力感の萌芽

7月に入ると、不安といらだちがさらに増大する。
言うまでもなくあの先生の発言によるものだ。

第二の課題研究は3年生の2学期にあり、個人でテーマを決めてそれについて論じ、提言を行うものだった。
3年生の2学期という時期は推薦入試の時期と被るし、センターの数ヶ月前である。
受験勉強を必要とする人には、何らかの措置をしてもらいたいと思うのが普通であろう。
しかし、そのような措置はなかった。それどころか、某先生は僕のような受験勉強を必要とする人を敵に回すような発言をした。

「ちょうど推薦入試があるし、センターも近いから、うまく両立するように考えないとダメだぞ。両立は大変だけどなー笑」
「課題研究やって、論文完成させないと卒業させないからなー」

こいつなめてんのか?
冗談抜きで殺してやりたかった。

今でもその言葉を忘れられないし、その言葉を思い出すと不安の発作が起こる。
当然、今もその先生を恨んでいる。

僕の頭の中では、この「第二の課題研究」も夜まで残ってやるものだと思っていたから、すごく不安になったし、この学校とあの先生はとことんまで受験する人を邪魔する悪党のような存在だと確信した。

こうして、精神的に不安定な状態のまま夏休みに突入せざるを得なかった。
受験生にとって、夏休みといえば受験の天王山と言われ、受験の勝敗をある程度決める予選のようなものであるが、予選落ちしそうな勢いであった。

この頃には既に学習性無力感を獲得してしまっていた。
学校からは理不尽な目に遭い、先生からは理不尽なことを言われ、カリキュラムの問題から進学校の生徒より結果が出にくい境遇に置かれ、おかげで来る日も来る日も勉強しても結果がついてこない。
こんな状況では学習性無力感を獲得しない方がおかしいほどである。

まず朝起きられない。
勉強しても勉強しているふりをするのが精一杯だった。
理系科目の難しさ、限られた時間、増大する不安、学習性無力感から来るやる気の減退。
全てが悪化しつつあった。

これは勉強疲れだと思い、少し遊んだらそれが最後、まるで薬物に手を出したかのように机に向かえなくなった。
この日から、勉強に明らかに集中できなくなった。
結局夏期講習も2講座ほどサボってしまった。

9月に至って、現役で理系の大学に合格することは不可能と判断し、再び文系に戻すことに決定した。
理系科目はセンター演習のみ行い、残りは学校の授業と塾で補う戦略に変更した。
志望校もワンランク下の大学にした。

こうすると、少し気が楽になった。肩の荷が少し降りた感じがした。
それからは比較的勉強に身が入るようになったが、6月以前の集中力はすでに失われていた。

2学期に入ると課題研究の論文作りが本格的に始まった。
当然受験勉強に支障がないように終わらせたかったので、僕はYoutubeでPVを見たりしているクラスメイトを横目に論文作りを急ピッチで行った。
時には論文をUSBメモリに保存して、家で書き上げたりもした。
その結果、11月半ばに論文を完成させた。居残りは一切しなかった。

しかし、完成後も前述の発言による不安の発作は癒えることはなかった。
おそらくPTSDに近い状況だったのだと思う。

この発作に苦しみながらも、センター2ヶ月前からは過去問演習をひたすら行い、本番で得点を取れるように頑張った。
特に国語の漢文は、比較的少ない勉強で確実に点数が取れると聞いていたから、頑張って勉強した。

3. 受験本番

センター試験本番では、できるだけ不安の発作を起こさないようにアンカリング等を駆使して脳を鎮めるよう努めた。
結果、1日目は社会90%の得点率を獲得。英語、国語70%程を確保した。
国語は直前の模試では100点を割る結果になってしまったが、漢文のおかげで138点を取ることが出来た。

しかし、この日にどういうわけか2ちゃんねるのセンタースレを見て答え合わせをしようとしてしまったのである。
地理が88点ということを知り、喜んだがそれも束の間、ある書き込みの影響で不安の発作を起こしてしまった。

2日目は理科で70%取ったものの、数学で史上最悪の点数を記録した。あの書き込みを見てしまったのが遠因になった可能性がある。

結果、得点率は64%となった。理科2科目だと61.5%である。
正直、数学で失点したのが痛かった

このとき目指していた大学はセンターリサーチでD判定となり、断念せざるを得なくなった。
そこで別の国立大学を考えたが、センター重視で二次逆転が難しいためやむなく断念した。

そこで浮上してきたのが、とある国立工業大学だった。
国立大学としては最低レベルの難易度ではあるが、工業系の大学である。就職率も決して悪くはないだろう。
しかもセンター試験だけで入れる。
理系として頑張ったし、やりたいことも適性も理系にあると思うから、やっぱり文系ではなく理系になるべきでは?と自分の第二人格が唆していた。

ただ、本音では国立大学受験を断念して私立大学受験とセンター利用に絞りたいと思っていた。
しかし、国立志望だったという記録を残してほしいという親からの願いもあり、最終的にその国立工業大学に願書を出すことにした。

私立大学はマーチレベル2校とニッコマレベル1校に出願した。
しかし、自分のレベルを十分に把握せずに出願してしまったため、結局合格したのはニッコマレベルの大学のみだった。

しかも、マーチレベルの1校に至っては70点以上の点差で不合格となった。
そこで、最後の手としてセンター利用後期日程に出願することになった。

4. 進路選択

そして3月6日に国立工業大学から合格通知が届き、これにて「私立文系コースから始めて国立工学部に合格した人間」となった。
辛うじてではあるが、運命を変えることには成功した。
3月12日にはマーチレベルの私立大学からも合格通知が届き、2つの分かれ道ができた。
浪人も検討したが、勉強のモチベーションはすでにゼロであったし、さらに浪人で失敗し続けて多浪になった例があることを聞いて、浪人はしないことに決めた。

正直、かなり悩ましい選択を迫られることになったから、国立工業大学の方を先に見学してから検討した。

(私立)
メリット: 家から通うことが出来る。
      学生数が多く名門大学であるため、ブランド力がある。
デメリット:学費が高い。ただ、国立大の一人暮らしよりは安くつく。
(国立)
メリット: 工業大学なので就職に強い
      大学院で学歴ロンダリング可能。
      学費が安い。
デメリット:家から通えない。
      かなりの田舎である。
      単科大学で規模が小さい。

この条件でひたすら迷い続けた。
無難かつ多くの人が取る選択は、間違いなく私立大学であろう。
しかし、最終的には以下の理由から国立工業大学に入学手続を済ませた。
・自分の適性とやりたい仕事が理系分野にあったこと
・国立大学ブランドがあること
・工業大学で就職の食いっぱぐれがないと考えられたこと
(当時は不況であり、私立大学に進学すると就職が厳しいのではないかと危惧していた)
・大学院に進学し、学歴ロンダリングも可能なこと
・「私立文系コースから国立工学部に進学した」という勲章を残すため(学校の進路実績にも当然残るため)

しかし、この選択は失敗であった。
授業についていけなくなり、6月ごろには早くもサボり始めた。
さらに、大学周辺の田舎な環境も嫌になり、夏休み明けからは大学に一切行かなくなった。

その後、廃人のような生活になり、紆余曲折を経て大学を中退して東京の私立大学に再入学することになるのだが、これについてはまた別の機会に執筆する。

5. 高校生活の総括

学校に進路を纏足のごとく縛られ続け、抑圧され続けた3年間であった。

正直なところ、今振り返っても3年間在籍したことは後悔しかない。
修学旅行などのイベントはあったが、別に楽しくなかった。
課題研究も自分の糧にはなったが、それよりも学習性無力感や勉強への障害、長期間に及ぶ精神的苦痛など、失うものの方が遥かに多かった。

結論から言うと、まずこの高校を選ぶべきではなかったのだが、百歩譲って高校1年の冬までに通信制高校に転入すべきだった。
確かに誰でも入れるし、底辺のイメージがあったのは事実である。
しかし、精神的苦痛に耐えてボロボロになってまで「全日制」のプライドを保つべきものだったのだろうか?
予備校に高い金を払って高校で消耗するくらいなら、どう考えても通信制で学ぶべきだった。
ただ、当時は先入観などから来る間違った情報に惑わされ冷静な判断ができなかった。

結果としては、3年間の抑圧は学習性無力感を養成し、以後現在に至るまで人よりも努力できない体質になってしまった。
さらに、様々な青春のイベントや恋愛の機会も逸した。
合わない高校に在籍した結果、3年間を棒に振ったのみならず、以後の自分にも大きな影響を及ぼしたのだ。
もしかすると、大学選択も途中で通信制に転入していれば別の選択があったかもしれない。
こうなると実家の引っ越しや両親の仕事も異なっていたかもしれない。

冗談でなく、本当の意味で人生の歯車が狂ってしまったのだ。高校によって。

今の時代は通信制もある程度の地位を築いている。
いま高校生の方は、どうしても高校生活が辛くて、生理的に苦痛で、逃げ出したいと思ったら、逃げて。
逃げは決して悪いことじゃない。
耐え続けて精神疾患を患うほうが遥かにダメージが大きいから。
花咲く場所で咲こう。

この反省から、「生理的に無理、耐えられない」という環境では忍耐するという選択を取らず、退出する選択を積極的に取るようになったが、その結果が3年間で2回退職という実績に現れている...。
社会に出てからではなく、まだ高校生の傷口の小さいうちに逃げるべきだった。

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