人はいかにして「与党支持」から降りるのか?~僕の経験から~

こんにちは。
1年ほど前まで与党支持者だった、鳥です。

今でこそ野党支持者になっていますが、それまでは与党支持者だった期間が長かったのです。
与党支持者だった僕が、いかにして変わっていったのか。
まずは、時系列で振り返ってみます。

1. 経緯

幼い頃、公教育や周りの大人から「先生の言うことを聞きなさい」「大人は君のことを思って言っているのだから」と幾度となく言われてきた。

元来の我の強い性格ゆえ反抗してきたが、高校生くらいになると「大人に従わなかったことが原因といえるような失敗体験」が増えた。
ここにきて「やっぱり大人たちの言っていたことは正しかったのかもしれないな」と感じるようになっていた。

今思えば、これが与党支持者であるために重要な要素である「権力側への公正世界信念」の開花ともいえよう(詳しくは後の段落で述べる)。

皮肉にも、この仮説に対する確信は政府や与党批判の声を聞くほどに強くなった

頭の中で、「あの人達は何かにつけて政権を批判しているけど、本当に政権は酷いものなのだろうか?政権は政権でちゃんと国民のことを思ってやっているのでは?」と考えるようになっていたのである。
いわば、「民主主義の我が国で権力者が酷いことをするわけがない」という公正世界信念の発露であった。

だから、森友学園問題や加計学園問題、桜を見る会の問題についても「野党がなぜあんなに問題視するのかわからない。暇なのか?」と思ってさえいた。

他にも、カナダでの短期留学経験から「カナダは不便でサービス水準の低い国である」と感じ、相対的に日本が素晴らしく感じられ、それがさらに与党支持に弾みを付けた面もある。

この状況は昨年まで続いたが、少しずつ亀裂が入り、揺らいでいたのも事実である。

私生活においては、高校時代における教師の理不尽な対応、大学時代以降も警官の横柄な対応、中高年男性による横暴な振る舞いなど、後に「社会的強者による横暴」の具体例と捉えるような出来事に辟易していた。
ただ、当時は具体的事例を抽象化した上で本質を抽出する思考パターンをしていなかった(そもそも、それに至る経験量も知識量も不足していた)上、様々な人から刷り込まれた自己責任論の考えが頭にあったため、これを政治や社会の問題と結び付けられなかったのである。

他の事例では、ちょうど就職活動をしていた時期に#MeToo 運動があったが、自分事として捉えることが出来ず、そればかりか「男性側の言い分も聞かないとわからない」「女性が大袈裟なのでは」と考えるような始末であった。

変化に足がかりをつけたのは、社会人になってからである。
少しずつ「社会にも問題があるのでは?」と思うようになった。
その大きな要因は、日本企業で営業の正社員として就職したことである。

当時働いていた企業の文化は典型的な日本企業のそれであり、「新人は早く出社せよ」「遅くまで働いて稼ぐべき」「上司にはお酌せよ」「石の上にも三年」といった、精神論をベースとする旧態依然とした企業文化が残っていた。
ハラスメントも多く、教育係から言葉や身体的な暴力を受けたり、上司から詰められたりすることもしばしばであった。

ここにきて、この会社がいかに強者側に居心地の良い(末端には居心地の悪い)ものであるかを痛感した。
ただ、当時は「たまたまこの会社がダメだっただけでは」程度にしか考えられず、「次は営業ではなく非営利の組織にしよう」と考えていた。

だが、次もダメだった。
まず転職において経歴や在職期間による差別に直面したのもさることながら、次の会社でも理不尽なパワハラや精神論によって苦しめられたのである。
こうして次第に「弱い個人を尊重しない社会に問題があるのでは」という疑惑が強まっていった。

そして2020年。本格的に風穴を空け、ドラスティックな思想転換のきっかけとなったのはジェンダー問題である。

学生時代から「家事・育児は分担すべき」「男性も育休を取得すべき」という考えであり、それを怠る男性に対して批判的な目を向けていたが、パンプスの事実上強制やガラスの天井といった男性側から見えづらい問題については他人事であった。

しかし、この頃になると次第に変わっていった。
これまでパワハラや精神論、コロナ禍での出社強制といった「強い者から押し付けられる価値観」に苦しめられてきた僕は、「社会(構造)に虐げられる弱い立場」であることを自覚しつつあった。
その過程で、#Kutoo などの女性の訴えについて、これまでなら心の中で他人事扱いしていたが、自分のことかのように理解できるようになっていった
なぜなら、僕も女性も「社会から差別される存在」なのだから。

そう感じつつあった。

そんな状況下、決定的なターニング・ポイントとなる出来事が起こる。
ある日、何気なくTwitterを見ていると「妊娠したが相手の男性に逃げられ、泣く泣く全額自費で中絶した」というツイートが目に止まった。
正直に、ものすごく惨いし、理不尽だし、女性が虐げられている。泣き寝入りはあまりにも凄惨だ...。
そう感じた。
たとえ合意の下だったしても、被害者にあたる女性がコストを全額負担し、加害者側にあたるはずの男性が何のお咎めもなくのうのうと生きられている現実に強く憤りを感じた。
まるで無保険車によるもらい事故である。いや、一生に残るトラウマを作ったという点では、何倍も酷いか。

これまで生きてきた中でも五本の指に入るくらい衝撃的だった。
これを機に、ジェンダーについて以前の何倍も関心を持つようになった。

それまでコロナについては「経済への打撃が求人を奪う」という視点から反自粛派であったが、当時FFであった反自粛派の人物が上記の件について自己責任とする論をリツイートしたため、これに反発したところ喧嘩となり、ブロックして関係が終わった。
この出来事を契機に、反自粛のスタンスから距離を置くことを決めた。

ジェンダーについて調べていくにつれ、「いかに女性が差別される立場に置かれているか」を知った。僕自身も差別される側との自負があったので、自分の事かのように感じられた。

ジェンダー平等を推進する人々は、ほとんどがリベラルである。リベラルは、保守政権である現政権のスタンスに反対する立場を取っている。
当初は、政権批判のツイートを見てもピンと来なかったし、「それはそれ、これはこれ」程度の認識であったが、何度も目に入ってくるので自分なりにミクロな事例に置き換えてみた。

すると、ハッと気づいた。
「現政権のやってきたことは、僕を虐げてきたパワハラ上司や、強い者に有利な価値観のパターンそのままじゃないか!」と。

ここに至り、野党があれだけ声を上げていた理由が理解できるようになった。
そう、公正や公平、科学といったものを軽視し、精神論や強者への優遇など、ある種のマッチョイズムを踏襲しているのだと。

こうして、長年に渡り自分の頭を支配していた公正世界信念は崩れ去った。
これまで僕が「野党は批判ばかり」とか、「政府はこんなに支援策を打ち出している。なのに文句を言うとか他責すぎる」と、弱い立場の視点を想像もせずに偉そうに考え、与党を支持してきた自分を心底恥ずかしいと思った。

こうして僕は与党支持を捨てた。

その後も公正や公平が悉く軽視されている現状を知るにつれ、問題意識を強く持ち、現在に至っている。ならばどうすればよいのか?という対案については、現在構想を練っている段階である。

2. 何が人を与党支持にさせたか

では、何が人を与党支持にさせるのだろうか。
そして、与党支持であり続けるためにどういった要素が作用していたのだろうか。

僕の過去の経緯や、Twitter上の様々な人物のアカウントや、友人知人などの事例から考察してみると、概ね以下の3つに集約できる。

(1) 公正世界仮説
(2) 抽象化思考力の不足
(3) 人権(個人の公正、公平)や民主主義に対する無理解・誤解

それぞれ順を追って説明する。

(1) 公正世界仮説について

単純に言うと「良い行いをした者には良い結果が、悪い行いをした者には悪い結果がついてくる」と考える心理的バイアス(人が陥りがちな合理的でない考え方)のことである。
だが、これは往々にして「コロナウイルスに感染したのは外出したから」とか、「就職できないのは本人の努力が足りないから」といった自己責任論を助長する側面もある。

また、別パターンとして「行政や司法などの権力は市民の味方であり、常に市民のことを第一に考えて行動している」と権力者を性善説で考えてしまう側面もあり、これが与党政権支持に傾かせる上で重要な要素であると考えられる。

では、なぜそうした心理的バイアスが身につくのだろうか?

確固たるものは解明できていないが、おそらくは成人するまでの教育の影響が大きいと思われる。
子供が他人と軋轢を起こさないように、世の道徳や法律を守るように、そうさせるために「良いことしたらご褒美がもらえる。悪いことをしたら罰が当たるよ」というように言い聞かせるのである。
これ自体に大きな瑕疵は見当たらないが、人権や憲法の趣旨も同時並行する形で教育しないと、「権力者は市民の味方である」と盲目になり、結果的に与党支持に回ってしまう可能性が高いように思われる。

(2) 抽象化思考力について

これは「個々の事例の特徴をつかみ、枝葉を切り捨てた本質をとらえる」思考力を指す。
BLM運動を例とする。BLM運動においては、一部の活動家が公共施設を破壊したり、パトカーを放火するなどの破壊行為を行っている。
だが、これは「枝葉」、すなわち表面的な部分である。

本質的な部分、すなわち運動の趣旨は、黒人に対する暴力や構造的な人種差別の撤廃を訴えることである。

よく言われる「BLMはテロ集団である!」という言説は、いわば「枝葉」、表面的な部分しか見ていないのである。
ここで必要なのは、「BLMの趣旨は、黒人に対する暴力や構造的な人種差別の撤廃を訴えることである」ことを知り、理解することである。

このためには、表面的な部分にとらわれずに本質をとらえる必要がある。

確かに破壊行為はもちろん犯罪であるが、その「破壊行為」という枝葉の部分のみを切り取って本質部分を無視ないし否定する行為は、著しく偏った理解に繋がる。
そして、こうした「枝葉」のみをとらえる姿勢でいると、現在の与党政権がこれまで重ねてきた不正や横暴、無理解といった「本質的な問題点」に気付かないため、与党を公正な政党だと思い込み、与党支持者の意見の表面部分を盲目に受け入れる結果で、野党は不正で扇動的な政党であると思い込むことにつながり、必然的に与党支持に傾く可能性が高いと思われる。

(3) 人権(個人の公正、公平)や民主主義に対する無理解・誤解について

一例としては人権を相対化してしまう認識が挙げられる。
たとえば「国民の三大義務を果たさないものに人権はない」という誤解である。

これは、天賦人権説に反しており、それに準拠する日本国憲法にも反するものである。
実際に、憲法11条には「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」とある。
「侵すことのできない永久の権利」であるから、義務の不履行によって基本的人権が剥奪されることはあり得ないのである。

ところが、上記のような誤解をしている人は少なくない。
なぜだろうか?

シンプルに言うと「人権や民主主義に対する無理解」であるが、個人的には公教育で十分に教えないことにも問題があると思う。
むしろ道徳が科目として位置づけられるほど重視されているため、優先順位として「道徳>>>人権」という考え方になり、相対化してしまうものと考えられる(仮説)。

ただ、これらについて無理解でいると、人権や民主主義の趣旨そのものを軽視してしまい、現与党が推進する憲法改正緊急事態条項の創設といった、人権や民主主義の根底を揺るがすような事案について表面上の理解で安易に賛成してしまうことにつながりかねない。
もしこれが施行されたら、政府のあり方次第ではいかに重大な結果を引き起こす可能性があるかという視点に及ばないままに。

逆に言えば、

公正世界仮説に囚われず、抽象化思考力を持ち、人権や民主主義を自分の血肉になるくらい理解すれば、与党支持者になりづらい(野党支持者になる)のでは?

私の経験も踏まえた考察から見出した、私の考えである。

3. あとがき

「ヒトラーがいかにして民主主義を破壊していったか」というエピソードはよく知られていますが、改めて綿密に調べてみると発見があると思います。

十分に精査したわけではないので偏見等あるかもしれません。今後、内容を順次修正していきます。

長文でしたが、お読みいただきありがとうございました。


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