偏差値50は「普通」と錯覚していた僕の高校受験

こんにちは、鳥(@tri0142)です。
Twitterでも告知した通り、僕の半生について語りたいと思います。

個人的な考えでは、人間の思想や価値観というのは、これまでの環境だったり、見聞きを含めた経験の積み重ねの結果だと思っています。

僕の考えは一般的な男性のそれとは異なっていると思います。では、なぜその考えに至ったのか。それを紐解くには、自分の過去を振り返ることが必要であると感じました。
そこで、自分の備忘録も兼ねて僕の半生を振り返ってみたいと思います。
※シリーズ化予定です。

1. 高校受験に至るまで

もともと、僕は勉強が苦手だったし、嫌いだった。
なぜなら、ゲームをしたり自転車に乗ったりする方が楽しく、勉強は興味がなく、意義も感じられず苦痛であったからである。
たとえば、数学の「マイナス×マイナス=プラス」は、概念が理解できず中1で脱落した。他の教科も真面目に取り組めず、提出物も面倒くさくなって未提出で過ごしたり、テスト勉強も一切しないのが常態化していた。
当然、通知表は「2」「1」だらけ。「行ける高校はありません」と言われたこともあった。
なお、これによって内申点はかなり低いものとなり、高校受験での志望校選定に大きく影響を及ぼすことになった。
当時のシステムでは、中学3年次のみでなく中学2年次までの内申点も計算に入っていたためである。

例外的に得意かつ好きだったのは社会科だった。幼い頃から地図や歴史が好きで、興味を持って勉強に取り組めたためである。

今思えば、勉強においてはある程度の割り切り(そういうものだと思って暗記すること)や、動機づけ(○○高校に行くために勉強するんだ等)が必要だったと思うが、当時の自分にはそれらの概念は一切なかった。なんせ、何事も納得できないとやる気になれない性格だから。

この姿勢から脱却できたのは中学3年生になる直前のことだった。
最終学年であり、多くの人が受験を意識するタイミングである。
僕もその例に漏れず、受験を意識した。

「中3になったら真面目に勉強する!

僕はそう決心した。

決心通り有言実行した。
実際に中学3年になってからは気持ちを入れ替えた。
具体的には、
・宿題は必ずやる
・忘れ物をしない
・授業を真面目に聞く
・テスト勉強も真面目にやる

以上の4点の実践である。
当たり前のことかもしれないが、それまでの僕はすべて出来ていなかった。

気持ちの入れようは以前とは別人のようだったと思う。実際、クラスメイトにも「鳥変わったな」と言われた。
5月頃からは個別指導の塾にも通い始めた。

2. 志望校の選定

高校受験を見据える上で、志望校を選定する必要があった。
当時の偏差値は47程度しかなかったため、勉強嫌いの僕が無理なく目指せる高校となると偏差値50程度の高校となった。
「偏差値50は普通程度(今通っている中学校と同じような雰囲気)」という僕の誤解もあり、その高校を志望校に定めることになった。

なお、僕が住んでいた地域における入試方式は、一般方式のほかに推薦方式もあった。
当初これは知らなかったのだが、塾の先生に薦められたことから本格的に検討した。
志望校の場合、特化型で普通科と異なるカリキュラム編成(理数はほとんどやらず、社会科関係に注力)が魅力的に感じたことから、「人と同じは嫌」という中二病をこじらせていたこともあり、そちらを志望することになった。(このあたりは限定公開版で詳しく書きます)

これは自分にとって最高の方式だと思い、僕は一般方式と私立受験対策の傍ら、このコースの受験対策をした。
12月頃には自己PRの添削や面接の練習に連日21時頃まで取り組んだ。そして学力もA判定が余裕で取れる程まで高めた。そして、学校での三者面談も済ませてこの方式の受験を正式に決めた。

まずは私立受験。内申点が低かったために、実力一本勝負の私立受験においては受験する公立高校より偏差値の高い、偏差値56の高校を受験することになった。
一応A判定は出ていたが正直緊張した。
合格通知が来たときは絶対落ちてると思って恐る恐る封を切って、「間違い」と書かれた文章で不合格と勘違いしたりもしたが結果は合格。このレベルの高校に合格したのだから、内申点の低さを加味しても目指している公立高校の合格可能性は高い。
すでに模試での偏差値は60近くになっており、偏差値の高い高校が視野に入るレベルだった。実際、親からは「狙ってみたら」と言われていた。

しかし、当時通っていた塾から「志望校のレベルを上げるのは厳しい」と言われていたこと、そしてある程度推薦対策を済ませていたことなどもあり、一般方式の志望校を1ランク(偏差値50→55の高校へ)上げたのみであった。

3. 受験本番

こうして当初の予定通り、志望校に願書を出した。
しかし、この段階で既に嫌な予感があった。

それは、「願書を出しに同行したクラスメイトが第一ボタンを留めていなかった」ことである。
僕は中2まで不真面目だったとはいえ、身なりのルールはしっかり守っていた。なのに第一ボタンを留めないクラスメイトには違和感を感じた。そんな生徒が受けに行くレベルだということは、その高校のレベルも押して図るべしというものである。
些細なサインではあったが、今考えれば警告だったのかもしれない。

しかし、チキンだし、これまで頑張って対策してきたのを振り返ると受験バックレなんてできやしなかった。

そして迎えた受験当日。やや緊張した面目で会場へ行き、試験を受ける。自分の力は十二分に出せた。
試験の後は人生で始めての面接。かなり緊張した。待合室で面接の作法を思い出し、イメージトレーニングを行う。
そして面接。緊張の数分間である。しかし緊張を見せ付けない底力を発揮し、通常の僕からは想像できないような堂々とした声で志望理由を言った。
面接が終わり、ほっとした気持ちで迎えに来てくれた家族の車に乗り込んだ。

そして合格発表の日。直接高校へ向かう。
高校に向かう道中で、同じ中学から受験した人と会う。どうやら落ちていたらしい。自分も、もしかしたら・・・という不安がよぎる。
高校に着くと、校舎の壁に合格した人の受験番号が書かれた紙が垂らされている。そこに僕の番号を発見した。
この瞬間、僕は「やったー!」と叫び、喜ぶ素振りを見せた。一緒に行った親も喜んでいた。僕が心の底から喜んでいると思ったのだろう。
しかし、本当のところ心の中の気持ちは「あー、やっちまった・・・・」という気持ちと、「まあ受かったからそこで頑張ろう!」という気持ちであった。そのため、喜びはすぐに萎えてしまった。
さらに追い打ちをかけたのは、後日、一般方式の模擬テストの結果が返却され、それによると1ランク上の高校の合格ラインを13点上回っていたから、ここに至ってミスを犯してしまったかもしれないという気持ちがより強くなっていた。推薦方式で合格してしまうと、一般方式の受験資格が取り消されてしまうためである。

今考えると、そこまでして公立高校に固執したのは、家計的な事情が大きかった。
両親の収入はその地域の平均年収を下回っており、家計に余裕がなかった。そのため、「高校は絶対公立ね」と言われていた。そのため、何が何でも公立高校に入学しなければならなかった。
それゆえ、チャンスを2回確保することで安全策を取ったのである。

しかし、今思えば「推薦入試はチャレンジし、一般入試は安牌を狙う」という方法にすべきであった。
前から目指し対策していたという理由だけで、推薦入試の志望校を変えずに固執した現状維持バイアスがかなり働いていた。

この選択は、人生において最大の失敗となり、ターニングポイントとなるのだが、その過程については次回説明する。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?