見出し画像

20221204 遠方の信者さんへの論達送付状

天理教会長もいちゃんのお話 (2022年) | もいちゃん | 宗教学 | Kindleストア | Amazon
から抜粋しています。
******************************************

論達第4号冊子送付の件 

 拝啓、皆さまにおかれましては御清栄のこととお慶び申し上げます。また、日頃から教会への御つなぎありがとうございます。

  この度、教祖140年祭に向けての3年1000日を前にして、10月26日御本部秋季大祭の際に真柱様より、論達第4号の御発布がありました。
11月の御本部の月次祭の際に冊子をいただいてまいりましたので送付申し上げます。

 さて、私事ですが6月29日大教会で神殿当番をしていた際に不思議な体験をしました。

その中で、親神様のお望みは陽気ぐらしであると悟りました。
その際の話を当教会関係者に対して神殿講話した際の原稿を同封いたします。

また、論達の御発布を受けて実施した当教会での神殿講話の原稿も同封しておりますのでご一読いただければと存じます。

 皆様におかれましては、決して大きいことをする必要はありませんので、陽気ぐらしを念頭に日々できる範囲のことでちょっとづつ心を作って行っていただければ幸いかと存じます。

 末筆になりますが、年末になり、寒くなってきておりますのでお体ご自愛ください。また来年も引き続き宜しくお願い致します。 敬具

 2022年12月4日
天理教分教会 会長 もいちゃん


*************************************************
〇同封した自教会神殿講話原稿その1
*************************************************

(2022:その07) 不思議な体験

本日は、不思議な体験について、思う所をお話したいと思います。(かしわ手)

 私は毎月29日に大教会の神殿当番で、大教会の神殿に座っています。
神殿当番とは4~5人の先生が30分交替で教服を着て杓を持って神殿の手前でじっと正座するものです。
30分とは意外と長いもので時計を見ながらあと10分、あと5分と座っています。
最近は夏場なので汗をかきながら座っています。
私は座っている時は頭の中で何を考えるでもなく、ただ目をつぶっている状態でいます。

 ただ、本年6月29日の16時から着座した時のことなのですが、5月末に亡くなられた部内教会の前会長さんのことなどを考えながら、『人間はなんで生きているのかなぁ』と考えながら目をつぶりました。
その時なのですが、意識が体から離れたようななんとも言えない不思議な感覚に入り込みました。
その時、一瞬で以下の3つの事が理解できました。

・この世は神様がつくられた世界であること。

・その中にあるこの自分の体は一時的に今まとっているだけで、自分ではあるが自分ではないこと。

・この体をまとってこの世界に存在する理由は、人間がこの世で陽気暮らしを体現するためであること。

 『あ~、そうだったんだぁ~!!』と一瞬で全てが理解でき、はっと意識が戻って目を開けて時計を見ると、今目をつぶった筈なのに一瞬で30分が過ぎていました。
きっとお釈迦様が菩提樹の木の下で悟りを開いた時にはきっとこのような感覚だったのではないかと思えるような感覚でした。

 また、同時にこの世の理(ことわり)が全て理解できたという感覚にもなりましたので、今生での生きる目的はもう達成したようにも思えました。

 その瞬間から頭の中の回路が組み変わったような、また、なにか現実と非現実が区別がつかないような感覚になり、表現を変えると魂が半分抜けたような状態になりました。
また、大教会から車で帰る途中で筑後平野の水田や山並みの緑や空の青や白い雲をみていると、なんとも美しく、世界はこんなにも綺麗だったのかと恍惚としました。
自分はこの美しい世界の中で生かされているとともにこの世界の一部であるとしみじみと感じることができました。

 この体に縛られているので、この世の中では人間関係や色々な事情・身上に悩み苦しみますが、この体は一時的なものであると理解できると、悩む必要もないなとも思いました。
それらの悩みは一時的に見せられてはいますが、それは本質ではなく、陽気暮らしをする魂へとなる為の砥石であるとも理解できました。

 人間は神様から分け与えられた魂が本質で、その魂に神様から作っていただいた動物の体をまとっているもので、今生でのこの体を使って、いかに魂をより良い方向に向上させて行けるかどうかなのだなとも理解しました。

 元の理では、人間を創造された神の目的、つまりこの世を陽気暮らしの世界としたいこと。また、人間を創造する為に神が非常に苦労されてこの体を作ってくれたことが示されています。

 また、体は かしもの、かりもの であり、我がの物であって、我がのものではないと教えられています。

 以前からこのことは頭ではなんとなく理解していたのですが、それを本質から全てを一瞬で理解できた瞬間でした。

 6月29日段階でも私の病気である躁うつ病はかなり良くはなっていましたが、それでも1日に10錠程度の精神科のお薬を飲んでいました。

しかしその瞬間からお薬を一切飲まなくても問題なくなりました。

私にとって、20年間飲んでいた精神科のお薬とは一体なんだったんだろうかと改めて思います。
この薬を全く飲まない状態の自分が、今生での本当の自分なのだと改めて気づきました。

 この体が自分のものであって、自分のものでない。

またこの世に存在する目的は陽気暮らしをすること。

この2点だけ理解できれば、自ずとどうこの人生を生きて行ったらいいかは分かってきます。

天理教ではこういった時はこうしたらいい、ああいった時はああしたらいいと色々なケースが教えられてきてはいますが、それはあくまでこの2点のことを前提にしているものです。

 ですので、細かい事象に目を捉われることなく、大きい視点でこの2点を踏み外さないようにすることが大事なのではないかと思います。

 是非、『元の理』と『かしもの、かりもの』をしっかりと理解されることをお薦めします。

 そして、この人生をどうより良いものにするかという視点で生きて行かれることをお薦めします。

 私も残りの人生を皆さまと共に、精一杯生きていきたいと思いますので、今後とも宜しく御願い致します。

 以上つたない話ではございましたが、御清聴ありがとうございました。(かしわ手)

*************************************************
〇同封した自教会神殿講話原稿その2
*************************************************

 (2022:その9) 論達について思うこと

本日は、本年10月26日に本部にて真柱様から論達が発布されましたので、それについて思う所をお話したいと思います。(かしわ手)

論達の全文は以下の通りとなります。読ませていただきたいと思います。

---------------------------------------------------------
 『諭達第4号』

 立教百八十九年、教祖百四十年祭を迎えるにあたり、思うところを述べて、全教の心を一つにしたい。

 親神様は、旬刻限の到来とともに、教祖をやしろとして表にお現れになり、世界一れつをたすけるため、陽気ぐらしへのたすけ一条の道を創められた。

 以来、教祖は、月日のやしろとして、親神様の思召をお説き下され、つとめを教えられるとともに、御自ら、ひながたの道をお示し下された。

 そして、明治二十年陰暦正月二十六日、子供の成人を急き込まれ、定命を縮めて現身をかくされたが、今も存命のまま元のやしきに留まり、世界たすけの先頭に立ってお働き下され、私たちをお導き下されている。

 この教祖の親心にお応えすべく、よふぼく一人ひとりが教祖の道具衆としての自覚を高め、仕切って成人の歩みを進めることが、教祖年祭を勤める意義である。

 おさしづに、

 ひながたの道を通らねばひながた要らん(略)ひながたの道より道が無いで。 (明治二十二年十一月七日)

と仰せられている。

 教祖年祭への三年千日は、ひながたを目標に教えを実践し、たすけ一条の歩みを活発に推し進めるときである。

 教祖はひながたの道を、まず貧に落ちきるところから始められ、どのような困難な道中も、親神様のお心のままに、心明るくお通り下された。

 あるときは、

「水を飲めば水の味がする」

 と、どんな中でも親神様の大いなる御守護に感謝して通ることを教えられ、また、あるときは、

「ふしから芽が出る」

 と、成ってくる姿はすべて人々を成人へとお導き下さる親神様のお計らいであると諭され、周囲の人々を励まされた。

 さらには、

「人救けたら我が身救かる」

 と、ひたすらたすけ一条に歩む中に、いつしか心は澄み、明るく陽気に救われていくとお教え下された。

 ぢばを慕い親神様の思召に添いきる中に、必ず成程という日をお見せ頂ける。

 この五十年にわたるひながたこそ、陽気ぐらしへと進むただ一条の道である。今日、世の中には、他者への思いやりを欠いた自己主張や、刹那的行動があふれ、人々は、己が力を過信し、我が身思案に流れ、心の闇路をさまよっている。

 親神様は、こうした人間の心得違いを知らせようと、身上や事情にしるしを見せられる。

 頻発する自然災害や疫病の世界的流行も、すべては私たちに心の入れ替えを促される子供可愛い親心の現れであり、てびきである。

 一れつ兄弟姉妹の自覚に基づき、人々が互いに立て合いたすけ合う、陽気ぐらしの生き方が今こそ求められている。

 よふぼくは、進んで教会に足を運び、日頃からひのきしんに励み、家庭や職場など身近なところから、にをいがけを心掛けよう。

 身上、事情で悩む人々には、親身に寄り添い、おつとめで治まりを願い、病む者にはおさづけを取り次ぎ、真にたすかる道があることを伝えよう。親神様は真実の心を受け取って、自由の御守護をお見せ下される。

 教祖お一人から始まったこの道を、先人はひながたを心の頼りとして懸命に通り、私たちへとつないで下さった。その信仰を受け継ぎ、親から子、子から孫へと引き継いでいく一歩一歩の積み重ねが、末代へと続く道となるのである。

 この道にお引き寄せ頂く道の子一同が、教祖の年祭を成人の節目として、世界たすけの歩みを一手一つに力強く推し進め、御存命でお働き下さる教祖にご安心頂き、お喜び頂きたい。

 立教百八十五年十月二十六日

 真柱 中山善司
---------------------------------------------------------

 今回の論達に書かれている内容は、私達天理教信者にとっては当たり前のことだと思います。一人一人の皆さまがこの論達を読まれてどう感じられるかが大事ではないかと思います。

私の感じたところを述べさせてもらいたいと思います。

 教祖様、親神様は人間が陽気ぐらしをするのを見て共に楽しみたいと考えられて人間を創造されたと教えられております。
この為、天理教を信仰する者の第一の目的は一人一人が陽気暮らしができるような心を作っていくことだと思っています。

 人間の悪いこころづかい(8つのほこり)である『おしい、ほしい、にくい、かわいい、うらみ、はらだち、よく、こうまん』それと『うそとついしょう』といったような心づかいをできるだけしないようにしなさいと教えられています。

 その上で、そういった心づかいを払う方法として、朝夕のおつとめを教えられています。

あしきをはろうて たすけたまえ てんりおうのみこと

と唱えるおつとめを教えられています。

これは、『自分のあしきこころづかいを払いますので、親神様どうか宜しくお導きください。』と自己反省してお願いをするものです。

 また、そのように親神様の望まれる心が自分自身の中で作れたらならば、今度は周囲の人の助かりを願う行動をしないさいと教えられています。

 その手段として、病気平癒を祈願するおさずけをとりつぎなさいと教えられています。

このおさずけも、

あしきはらい たすけたまえ てんりおうのみこと

 と唱えますので、『自分とこの病気で苦しまれている方のあしきこころづかいを払いますので、どうかおたすけてください。』と神様にお願い・祈願するものです。

 つまりどれも陽気暮らしができる心づかいになるように日々努力しますと自己反省・研鑽することが、天理教の信仰の本質ではないかと思います。

 今回の論達ではそういう教祖様、親神様の想いにもう一度立ち返って信仰の本質を見つめ直しなさいということではないかと感じました。

人間は教祖様のようなきれいな心づかいにすぐになれる訳ではありません。

 ただ、ちょっとでも、少しづつでもそういった方向に自分の行い、生活様式が向くように日々努力していく姿勢が大事なのではないかと思います。

大きい目標を立てる必要はないかと思います。

ただ、ちょっとでいいのでそういった方向に心が向くように小さい目標をコツコツとクリアしていくような姿勢で日々過ごしていければいいのではないかと思います。

ちょっとしたことでも、積もり積もれば、大きいものになります。


君が代でも、

君が代は 千代に八千代にさざれ 石の巌となりて 苔のむすまで

と歌われています。
小さな石ころであっても長い年月をかけていけば、段々と大きい岩になって最後は苔がむすようになると歌われています。

 このように、ちょっとした陽気暮らしへの心づかいを日々積み上げていけば、いつの間にか自分の心が自然と陽気ぐらしの心づかいになっていくのではないかと思います。

みかぐらうたでも、こころすみきれごくらくや と歌われています。

 自分自身の中で、陽気くらしへの心づかいができれば、まずは自分自身が陽気であるという心境になり、そこから諄々と周囲の方々に陽気暮らしの心づかいが広がって行くものだと思います。

 まずは自分自身、次は家族、次は職場、知人へとそういった陽気ぐらしができる心づかいの雰囲気を広げていければと思っています。

 そういう心づかいを教祖140年祭に向けてつみあげていくと再確認できればいいのではないかと思っています。

 繰り返しになりますが、天理教の信仰の目的は陽気ぐらしができる心づかいにどのようになっていくかということだと思います。

 社会の中や家庭や職場でもひとだすけはできますので、日々の生活の中でそういった心づかいを心がけて目的を踏み外さずに生きて行きければいいのではないかと思うところです。

 私の場合は、教会の中でも勿論ですが、まずは会社の中で社員の方々が陽気に仕事ができる環境を作っていくことを目標に頑張って行きたいと思っています。

 皆さまにおかれましても、小さな目標で結構ですので、陽気暮らしの世の中になれるような心づかいをどうしたらできるかということを目標に設定されては如何かと思います。

 以上つたない話ではございましたが、御清聴ありがとうございました。(かしわ手)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?