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初代入信

うちの教会の初代は便宜的に上級の教会の奥さんがなっていましたが、実質的には祖父が初代でした。

祖父は教会と会社を作りましたが、なぜか今の私が同じ立場になっています。

信者さん方の間では、かなりのカリスマだったようですが、酒飲みで最後は肝臓がんで63歳で亡くなっています。

その2年後に私が生まれています。

最近よく考えています。

もし、祖父が今の私の立場ならば、今の会社と教会の人々をどういうふうに導くだろうか?と、

太く短く生きた祖父でしたが、祖父が書いた原稿が載っているみちのともが見つかったので、それをタイプアップして神殿講話をした際の原稿を以下に掲載します。

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本日は私の教会の二代会長である祖父が昭和三十三年にみちのとも(注)に寄稿した原稿から、二代会長の入信当時のお話をさせていただきたいと思います。(かしわ手)
 
親の懐住いの中に
工場が焼ける!私はその中に親神の慈悲を感じ、思わず“潰すな”と叫んだ。
 
会長にならせて頂いて十年(昭和三十三年)になりますが、やっとこの頃、会長は親の思いに添っていけばよい、親の懐中に飛び込んでさえすれば何一つ間違いない道だと悟り得たのであります。自分の道が正しいのだと、親の理(注)に素直でなく、我を張りこうまんの心を遣えば、結果は万が一にも良いことが生まれてこないことが、判りました。それだけに天の理、親の理に添っていけば安心立命の境地にあるという揺るぎない教理を掴み得たことは喜ばしいことでした。
 
証拠信心の教え
私の姉は県の出納長の家内でしたが、姉が皮膚病になった時、天理教の先生が単独布教時代に姉を訪ねてくださいました。その先生の知人と姉の夫が友人関係であることから、その先生が伺われたのです。姉の身上(注)が御守護になり、姉の紹介でその先生が当時私と母が共に住んでいた炭鉱の社宅に訪ねて来て下さいました。
ところが私はその四、五年は肺病で一年近くワラ布団に寝ていた位ですから、なかなか素直に聞き入れません。月に一回は必ず来て母にお話されるその先生をからかったり、嫌がらせをしていたものです。
その年の夏に大教会の巡教が近くの教会である、その大教会の先生のお話を聞いてくださいというので出かけてみました。この大教会の先生のお話で、すっかり天理教が好きになりました。天理教には、その奥に得も言われぬ深い味わいある教理があると知って、私は吃驚しました。
そして間もなく私は一つの事柄を体験したのでした。
家内が腸チフスに罹って病院に入院しました。よくなるどころか、牛乳一本が一日に飲みきれないという病状のまま一ヵ月半経ちました。すると母が天理教の教会に参拝してみろと申します。私は大教会の先生のお話には全く感服しましたが、母の信仰のしかたを眺めていると、ただもうやみくもに信ずるという、若い私にはついていけないものがあって、母の態度には批判的でしたが、その時は素直に軽い気持ちで母の言葉を受けて天理教の教会に参拝しました。
教会の神殿に座りますと、何故か涙が出て来て泣けて仕方がありません。教会の人たちがみていられる、体裁が悪いからと涙をふいても涙がでてきます。すると会長様が、『もう大丈夫、奥さんの熱は引いていますよ。しかしまたぶり返すかもしれないが、それもあなたの成人次第で必ず御守護いただける。』とおっしゃった。千里眼みたいなことをおっしゃるものだ、いかに天理教の教会に参拝したからといって、四十度近い熱が急にひくものでないと、半信半疑のまま、夜十時頃、帰って病院に寄ってみました。ところが熱が三十六度五分に下がっていました。
私が教会に参拝した時間頃、院長の回診があって、体温を測ったところ、三十六度五分に下がっている。チフス特有の赤い斑点がすっかり消えている。院長は吃驚して、早くなにか食べさせて元気をつけるようにといったということでした。
この姿をみて証拠信心だと思いました。教会の会長様のおっしゃる通りでした。理の浅い私に親神様はまず形から私の心をにぎられたものと思います。
間もなく、家内は退院しましたが、この時から私もいつかはようぼく(注)になろうと誓いましたが、母の信仰が土壌となって、私の心をつちかってくれたのでした。
 
道一筋にはなったが
それからの私は炭鉱勤めの暇暇に自転車を二里三里と、にをいがけ(注)に廻りました。別席にはこび、おさづけを戴いてからは、暇をみつけては飛び廻りました。肺病も脊椎カリエスもたすかり、面疔(めんちょう、皮膚病)も一晩で御守護いただいたり、声のでなかった扁桃腺炎が、翌朝にはもう声が出るという奇跡が相次ぎ、今更ながらに、この道の有難さが身に沁みました。母の思いに添った結果がこんな有難いことになるとは今まで思ってもみないことでした。
そのころ、先生(母に布教された)が宣教所を設置され、神殿建築の材木は寄せられましたが、まだ信者が少なく、ふしん(注)の運びにまでまいりません。すると翌年、天理教の先生たちが炭鉱の社宅に来られ、三日間泊まられて、私に炭鉱をやめよという膝詰め談判です。多分、私が炭鉱をやめるその退職金でふしん(注)を始めたいというお考えだったのでしょう。母は六十七歳だし、炭鉱をやめてあとはどうするのだろうと思案にくれましたが、いんねん一條の話を聞かせて貰い、母も是非そうしてくれと申しますので、ついに辞職を決めました。
会社を辞めた後、先生(母に布教された)の傍らにいて、何かと手助けした方が、母が喜んでくれると思いましたので、同じ町内に十五円の家賃の借家をかりて移り住み、不自由な生活を始めました。
にをいはなかなかかからず、まだ道一條(注)というはっきりした心構えもなく、一銭のおからで二日間を過ごすという日もございました。仕方なく、精米所や電気屋など、ペンチ・木ねじを持って修繕して廻り、どうにか生活をたてていました。
 
三井からの発注
その翌年の昭和十二年の事です。大手筋から、私の特許品の注文が舞い込んだのです。注文額は僅かでしたが、もし結果がよければ契約したいということでした。ところが設計だけならば定規、コンパス、鉛筆があれば済みますが、製品を作るとなると、資本も器械類も人手もいりますが、私にはありません。だが三井は是非にということでした。事情を話してお断りしなければならない。しかし三井まで行く電車賃がありません。ふと市内に塗料店をしている友人が電話をもっているのを思い出し、そこで電話をかけさせてもらって断ろうとしました。電話で断る私の声をきいて、その友人は一寸待ったと受話器を押さえて、『馬鹿なことをするもんではない。俺は塗料を三井に売り込もうとして、あの手この手を使っているが、まだ話がまとまらん。というより、売り込む隙もない位だ。それに大(だい)三井から注文がかかって断るものがあるものか。資本がいるならば俺が応援するから引き受けよ。』と申すのです。そこで三井の方は引き受けることにして、その友人に半額を融資してもらい、町工場に外注しました。製品は思ったより品質のいいものが出来、改めて三井と契約することになり、小さい工場を作りました。
ところが三井と取引していると知って、銀行から、是非借りて欲しいという申出がありました。先生にご相談すると、『成ってくるのが天の理』だと言われ、早速借りてちょっとした機械類を整えました。親の許しを得たのだと、それから工場に身を入れ、昭和十八年には、二千五百坪の土地を求めて工場を移転拡張しました。これが私の会社の成り立ちです。
食うや食わずの私が三井の取引をするようになってからは、献金の上では先生から仰る分だけはさせていただきました。ただ、言われた分だけしかしない正直者でした。親の思いには添ったが、親の懐中には飛び込んでいなかったのでした。価をもって実を買っていませんでした。
 
火事の火を消すな
戦時中は工場の上でお国の役に立ちたいと自分の事は後廻しにして、器械製品の製作に懸命になりましたが、暇暇にはおたすけ(注)もしておりました。工場はだんだん大きくなり、飛ぶ鳥も落とすほどの景気となり、少しは先生の教会への御用も出来ました。
昭和二十二年に、家屋を改造し、教会を設立しました。
そして私は会長に就任しました。
昭和二十七年の暮れのことです。先生が私の妻にお仕込み(注)をされましたが、その事で私は腹を立てたのです。いっそのこと会長を辞めてしまおうかとまで思ったのでした。工場が順調に廻って、先生からいわれた分はチャンと理を立てています。何が不足でという こうまん の心があったのです。つまりまだ価をもって実を買う心が出来ていなかったのです。
その翌年の正月十六日、教祖七十年祭にはいった第一年目の先生の教会の祭典の朝、工場が失火で焼けてしまいました。工場を持っていることで理が素直にはいらなかった。流された理をうわべだけ撫でて、親の懐中にはいらなかった。工場の塀で親の流れを止めず、眼に見えない理一條にすすめという親神様の御慈悲と咄嗟(とっさ)にそう悟りました。『消すな、ものを持ち出すな!』と、私は鮮やかな親神様のお仕事に感心しきって燃え落ちる工場を、これでいいのだと眺めていました。
私はすっかりこの工場をやめてしまうつもりでした。ところが、外部や注文先から『必要な機械はすぐ廻す、今やめてもらっては困る』と、やいやい言われ、先生からも七十年祭の御用の上の工場ということでお許しいただき、翌月には、またたく間に工場が再建して仕事にとりかかることが出来ました。
よく泥棒にあって物を盗まれた時、心からのざんげの印があれば、盗品は、心の入れ替えの褒美として神様がお返しくださるときいていました。仕事にかかった時は生産高も失火前以上になるという儲けものでした。心の持ち方ひとつで無から有を生ずるということも判ったのでございます。
幸い年祭の御用もどうにか出来まして、どうやら今度こそ、親の懐中深く食い込む修行ができたと思っております。
おかげで、今では、若い青年たちも集まってきて修養科(注)生も七十名を超えるという御守護を戴き、今度こそは二度と火事になる愚を繰り返さないよう、理にふんばりたいと思っております。
 
以上でございますが、私も祖父の信仰の在り方を忘れずに、これから信仰を深めていきたと思いますので、宜しくお願い致します。(かしわ手)
 
(注)
みちのとも:天理教の雑誌
 
理(り):徳、ことわり、おしえ
 
身上:病気
 
よふぼく:さずけの理をうけた信者
 
にをいがけ:布教
 
ふしん:建築
 
道一條:天理教専従
 
おたすけ:
布教、布教により人々の身上や事情をたすけること
 
お仕込み:教理的な指導
 
修養科:
天理教会本部で3か月間教理勉強とひのきしんをするコース
 
ひのきしん:
親神様のご守護に感謝をささげる自発的な行為、勤労奉仕、ボランティア

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