グルーヴが場所を居場所に変える。
相変わらず「居る」ということについて考えている。
きのうも、あいにくの空模様にもかかわらずたくさんのお客様にお越しいただいた。会いたいひとが、次から次に会いにくる。ここ最近は、そんな夢のような毎日を過ごさせてもらっている。きっと、なんだかんだ歯を食いしばってやったきた(多分そんなふうには見えていないだろうけれど)17年間に対する神様からのプレゼントにちがいない。そうだ、そういうことにしておこう。
そして、これはあらためて気づいたことなのだけれど、これまで何度もモイに足を運んでくださったお客様というのは、年齢や性別にかかわらずみなどこか似通った空気を身にまとっているような気がする。
おだやかで、どちらかといえば控えめ。けっして自分の方からガンガン話しかけてくるようなタイプではないけれど、話をすればするほど自分の好むものに対してハッキリとした「ものさし」を持っている、そういう人たちだ。
最初の荻窪の店のときから分かりづらい、入りづらいと云われつづけたモイではあるけれど、ある意味それが「踏み絵」のような役割を果たしていたのかもしれない。モイを気に入ってくださるお客様は、みないかにも〝モイらしい〟お客様だったし、彼らが醸し出す空気のおかげでモイはより〝モイらしく〟なっていったように思う。
こうしたお客様がたは、口を揃えて「モイの居心地のよさ」について感謝の言葉を述べてくださるのだが、ぼくに言わせれば、そう仰るお客様ひとりひとりこそがまさにその居心地のよさの正体なのですよ、ということになる。なぜなら、お店は、どんなに洒脱で美しい内装にしても、考え抜かれたこだわりのメニューを提供しても、しょせんはたんなる空っぽの器、入れ物にすぎないからだ。
むかし劇場で仕事をしていたとき、ステージも客席も空っぽの本番前の劇場のあまりの殺風景さに驚いた記憶がある。かつてプライベートで何度も訪れ、素晴らしい演奏や舞台に触れ感動したのと同じ場所だけに衝撃的だった。なるほどそういうことなのか、とそのときに悟った。
劇場はただの入れ物にすぎない。劇場を劇場にするのは、ひとりひとりの観衆の存在である。
カフェもまた然り。僕はしばしば、お店の居心地よさについて「グルーヴ」という音楽用語になぞらえて考えてみる。
モイのお客様は、年齢も性別も、職業も好きなものもそれぞれまちまちである。けれども唯一、モイというお店を気に入ってくれているという点で彼らはゆるやかにつながっている。そのつながりは、安心感をもたらす。本来なら警戒心や疎遠さを与えても不思議ではないひとりひとりの違いも、この安心感の上ではむしろ心地よいうねりと感じられる。
ア・ハウス・イズ・ノット・ア・ホーム
バート・バカラックの曲ではないけれど、ただの「器」にすぎないカフェを心地いい居場所に変えてくれるのはこのうねり、安心感に裏打ちされた刺激、グルーヴにほかならない。
つまり、居場所をつくろうと思えば、いかに巧みにこのグルーヴを引き出しうるかが肝になるというわけ。
さてさて、帰ろうかと思ったら、店先がすっかりズーズー(ネコの名前です)の居場所として占拠されていた。ねえ、君がそこにいると僕は帰れないのだけど。