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きっと大阪で髪を切るのはむずかしい

所変われば品変わる、と言う。あたりまえと信じて疑わない風俗や習慣も、一歩外へ出てしまえば最後けっして同じというわけにはいかない。基本的なことだが、しばしばぼくらはそのことを忘れる。だから、井の中の蛙にはなるな、そこにはそうした戒めも含まれているのかもしれない。

たとえば、鋳型に流し込んだ生地に餡をくわえ焼成した丸い菓子をぼくは「今川焼」と呼ぶ。だが、それはぼくが関東の人間だからであって、同じものが関西では「太鼓焼」や「御座候」、九州では「回転焼」とその名前を変える。

それぞれ、「今川焼」は地名から、「太鼓焼」はその形状、そして「回転焼」は製造法から名付けられたのだとわかる。「御座候」にいたっては店の屋号である。なんとか形状か製造法あたりで妥協して、名前を統一するわけにはいかなかったのだろうか。人間という、絶えず小さく変わりつづけることで大きく変わることを必死に回避している生きものからすると、そんなにかんたんに名前が変わってしまってよいものかと不安になる(※前回記事参照)。

似たような例に「バンドエイド」がある。ちょっとした傷に貼りつける絆創膏のことだ。関東で生まれ育ったぼくは、なんの疑いもなくそれを「バンドエイド」と呼びつづけてきたのだが、これもまた土地によってずいぶんと異なるらしい。

たとえば東北や中国四国、一部の九州では「カットバン」と言ったほうが通りがよい。北海道では「サビオ」である。「サビオ」ってなんなん? でも、絆創膏を必要とするときはそれなりに緊急性を要するので、北海道にいるときは「バンドエイドください!」と言うより「サビオください!」と叫んだほうが止血までの時間を短縮できそうだ。知っててよかった。

今川焼とちがい、絆創膏のそれはすべて実際の商品名であり、要はその土地ごとの流通量に比例していることになる。そうかんがえると、それはそれで領地をめぐる戦国武将の争いのようで興味深い。ちなみに、富山県は全国で唯一「キズバン」の領地である。いちど貼ったらそう易々とは剥がれない、したたかな粘り強さをキズバンに感じる。

そういえば、と不意に思い出したのだが、むかし四国地方の物産館に併設された食堂でうどんを食べたときのこと、「天ぷら」をトッピングしたつもりがうどんに「さつま揚げ」が載ったものが出てきて仰天した。これが「天ぷら」なら、あれはいったい何て呼べばよいのだろう。安直に「衣がついた方の」とか言って、結果衣のついたさつま揚げが出てきたらどうしよう。きっとそれは脂っこいよ。それ以来、四国で「練り物ではない方の天ぷら」にありつける自信がまったくない。

「いいか、おまえら、廊下でとぶんじゃねえぞ!」朝礼で、体育座りした生徒たちを前に強面の教師はそう怒鳴ったのだった。それは、親の転勤のため転校した静岡県内の小学校での登校初日のできごとである。

え?飛ぶ?廊下を飛ぶってどゆこと? 神妙な面持ちをしたクラスメートをよそに、ぼくはというと笑いをこらえるのに必死だった。この土地の子どもたちは特別な能力を、さもなくば特殊なマントでも持っているのだろうか。いかにも幼稚な想像にはちがいないが、廊下を颯爽と飛びかうマントをはおった少年少女が目に浮かんだ。ホグワーツか。
 
正解とは、だが、つねに想像に比して味気ないものである。けっきょく、その土地の子らは廊下を「飛ぶ」かわりに「跳び」まわり、例の先生からこっぴどく叱られているにすぎなかった。そして一ヵ月もすると、ぼくも一緒になって廊下を跳んでは怒鳴られるという、魔法や魔術のかけらもない、ごく平凡な市立小学校の生徒になっていた。

しばしば方言に戸惑うのは、はなっからわかるはずないと決めている外国語とちがい、どこかで同じはずだという思い込みがあるせいだと思う。すべての外国語は方言で、すべての方言は外国語だと思えれば、「わからないこと」への戸惑いは多少やわらぎそうな気がする。

方言とはちがうが、おなじ言葉に対する反応がその土地に暮らす人びとのキャラクターによって様変わりするというケースもありそうだ。

「どこかかゆいところはありませんか?」髪を切りに行くと、きまって洗髪の途中でこう訊かれる。「えっと、つむじの右下あたりがちょっと」などと答える人間ははたして存在するのだろうか?

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