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損は自分のため、得は誰かのため。

217.月光荘おじさん

友人から貸してもらった本に印象的なことばをみつけました。

でも、「人のために」つくしましよ。
人につくせば喜ばれる。人のためは自分のためです。
それがいろんなかたちでもどってくるのです。
鮭が故郷の川にもどってくるのと同じです。

ことばの主は「月光荘おじさん」こと、いまも銀座にある画材店「月光荘」をつくった橋本兵蔵さん。

兵蔵さんは貧しい農家に生まれました。兵蔵さんは、進学することはできませんでしたが、学問の大切さを身にしみて知っていたお父さんからたくさんの本をあたえられて育ったそうです。

その結果、兵蔵さんはもっと広い世界に触れたい一心から郷里を飛び出し、東京へと向かいます。農家の跡取り息子であるにもかかわらず。

たまたま書生として住み着いた家の向かいが与謝野晶子の家でした。与謝野晶子の詩なら、父に買ってもらった本を通してなんども読んでいます。ある日、ついに我慢がならなくなった兵蔵さんは勇気をふりしぼって与謝野家の呼び鈴を押します。

いやいや、すごい勇気ですね。田舎から出てきたばかりの向かいの家の書生がいきなり訪ねてきたら、ふつう「は?!」となりますよね。「で、なんの用?!」と。

その冷ややかな反応を予想しただけでとてもじゃないが呼び鈴なんて押せません。だいたい、無断で訪ねたことを知られたらようやく住み着いた家すら追い出されることになるかもしれない。

でも、そんな兵蔵さんを、なんと与謝野晶子はあたたかく迎え入れてくれるだけでなく、そこに集まってくるたくさんの芸術家たちに引き合わせてくれたというのです。外見で判断するのではなく、本質を見抜く目をもっていたのですね、与謝野晶子は。

あなたは学問はないけれど、良心と勇気があるからきっと良い仕事があるよ。

そう言って、晶子は後に兵蔵さんが画材店をひらくときにもあれこれ世話を焼いてくれます。ちなみに「月光荘」という屋号の名付け親は晶子です。

画材店をひらいた兵蔵さんは、いっしょうけんめい身を粉にしてはたらきました。すべて自分をあたたかく受け入れてくれた晶子と、そこに集っていた芸術家たちのためです。

この人たちがすばらしい芸術を生み出せるよう手伝いたい、そのお役に立つことこそが自分の人生の使命である、そう兵蔵さんは考えたのです。

一人前の画材屋の「おやじ」になることこそが、貧しいのにたくさんの本を買い与えてくれた父親への恩返しに、そして家業をほっぽり出してきたことへの罪滅ぼしになると兵蔵さんは考えたのかもしれません。

こうして兵蔵さんの人生のバックグラウンドを知ったうえで最初のことばをあらためて読むと、それがいかに兵蔵さんの実体験にもとづく心からのことばであるかがよくわかります。

それはさ、兵蔵さんがたまたま運がよかっただけじゃないの?

あるいは、若いときのぼくはそう言ったかもしれません。でも、いまはまったくそう思わないのは、自分もまたそうした「善なるもの」によって助けられてきたという実感があるからにほかなりません。

まあ、恥ずかしい話ですけど、そういうことを認め、理解するのに半世紀の時間を要したということですね。

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