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きょうだいで掘る星深く遭うたびにまさぐり指でするちゃんばら/高柳蕗子 一首評

歌誌「かばん」2021年12月号掲載

きょうだいで掘る星深く遭うたびにまさぐり指でするちゃんばら
/高柳蕗子『潮汐性母斑通信』沖積舎 2000年

 ここで詠まれた「星」とはなんだろうか。互いに星を掘りすすみ、真ん中で触れあう指。まるで海辺の砂浜を挟んでじゃれ合っているかのようであり、星をこのように扱う存在は、巨大な神々のごとき者であると感じられる。と同時に、歌中に配置された「深く」「遭う」まさぐり」「指」といった言葉からは性的なイメージを喚起される。「きょうだい」という、性別を限定しない平仮名表記も男女の存在を示唆し、性的なイメージを強化する。
 日本神話においては伊邪那岐と伊邪那美の二神が交わって神々や島々を産み出す。ギリシア神話においてもガイアはウラノスと結婚し、神話を構成する多くの神々を産む。つまり神々のごとき「きょうだい」が星を掘る戯れとは、世界を生むための行為、創世のセックスなのである。
 もちろん、単純な読み解きに価値をおかない高柳が書いた歌であるから。私の読みも一つの提案に過ぎない。しかし、このような視点で読み解くとき、歌の末尾が「ちゃんばら」になるのは必然である。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教における最終戦争や、北欧神話におけるラグナロクなど、戦による世界の終わりをもつ神話は多い。世界の始まりから終末までが一首に読みこまれているのであり、「遭う『たびに』」とあることから、すでにこの創世と破壊がなんでも行われているとさえ示唆されているのだ。

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