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無意識の点と面

桜が咲けど散れど、気温が如何せん夏か冬。
二季でいいね?
 
2月3月は肉体的にも精神的にもかなり忙しかった。
大変だったししんどかったし面倒臭かったし怖かったし怒りもした。
殆どが負の感情だ。これは疲れる。
4月から迎えるであろう穏やかな生活の為に私は今この試練を与えられているのか?という程に、公私共に忙しかった。そして乗り切った。
私、がんばった…。今回ばかりは褒めてほしい。このシミが気になるお年頃のババァを褒めてほしい。
 
その時期にちょっと被さって、新たに事業を始める友人の手伝いに駆り出され、そのままあれよあれよと4月が終わってしまったので、茫然としているところである。
嘘でしょう、5月て。
且つ、私はこんな歳にもなって、毎年毎年4月は31日まであると勘違いして生きている。大体前日に気付く。
 
一通り落ち着いたので、久しぶりの友人と食事をする機会も増えた。
気心知れた人達との会合は楽しい。
これまでは親の介護に対する覚悟の会話をする機会が多かったが、今や自分の死に様の話にまで発展してしまっていた。まさかである。因みに全員の親は健在でまだ介護を必要としていない。
帰り際に「明るい話、してないね」つって散るのである。
 
若い頃は中身のないバカな話だけで夜通しファミレスなんかで盛り上がれたけれども、体力だけの問題ではなかったのだな。今はキツイ現実と暗い未来の話だけで夜通しいけちゃうもんな。
まぁ一人で悶々とそんな事を考えているよりかは誰かと分かち合えるのはいいとは思う。ある意味健康的。
 
個人的には「若気の至り」っていうのは、ババァジジィになってから起こしても全然いいと思っている。
「ババァの至り」って造語を生み出しちゃいたい。
周りに迷惑さえ掛けなければ。
その方が楽しい人生だと思う。
私は神経質ではないので割と出来ちゃうタイプなのだが、同年代以上の人から見れば「アンタいつまでそんな事やってんの?」って言われたり思われたりする。
でもやったモン勝ちじゃない。楽しい事は。誰にも迷惑掛けてないじゃない。年齢なんて数字じゃないの。
と、私は心の中で思う。
 
私は点で悩まない。あまり。
壮大ではないが、面で考えがち。
大局的でもないんだけど、何故だか面タイプ。
だから悩みも茫然としている。
 
点で悩む友人の話を聞くと、純粋に凄いなと。
頭が良いんだと思う。
点が線になって、その先がある。
リアリスト?っていうのかしら。
 私と違って茫然とした悩みじゃない。めっちゃ細かい。詳しい。

私は面なので、先が見えていない。
でもあんまり解決しようとも思っていなくて、とりあえず行動しがち。
それが解決する事もあるし、解決せずとも一応の悩みは消える。
そもそも悩みという悩みがないのかも。
基本、今が良ければそれでいい。
 
そういう人種間で延々と喋っても解決策はまぁ出てこないよね。
同調できなくてごめんと思うし、相手も思っているかもしれない。
 
私サイドからすれば、頭の良い人と会話をすると、勉強させてもらってるなという気持ちが生まれる。ひょっこり自分も賢くなったような錯覚に陥る事もある。
また一つ大人の階段を上ったな、私、エヘヘと。
 
ただ、これは、当人に伝わらないと思うし、目に見える根拠もないから、悩みのある人に対して言わないんだけど、持論があって。
不安とか心配は、すればするほど、現実化する気がしてる。(逆の感情も然り)
自分がそれを無意識に望んでしまっているので、不安に思っている事が起らないと困るのではないか。
 
 
例えば、
昔、常に体調に不安のある友人がいた。
病院へ行き検査をし何も異常がないと診断されると、その友人は困っていた。
暫くすると別の体調不良を訴えて、また病院へ行く、というのを繰り返していた。
膝が痛い→異常なし→肩が痛い→異常なし→皮膚がおかしい→…そんな感じ。
 
本来なら異常なしと言われた時点で安堵し、不安は減るのに、友人は毎回「そんなわけない」と呟く。
精神的に「ほら見ろ、私の不安は的中したじゃないか」と言いたいのだ、と思った。
何故なら、実際、検査して、宜しくない結果が出た時、治療して完治した場合もあったが、喜ぶ事もなく、すぐまた次の症状を訴えだすのだ。
これは極論かもしれないが、そういう人は元々神経質で潔癖(心身共に)な性格でもありそうな気がする。
 
で、やはり、この友人も点なのかな、と。
この点が終われば次の点。
頭の良い人は点なのかな…。
 
以前こちらに書いたが、私は長年病名が分からずに10年以上色んな病院をたらい回し、やっとこさ判明した時に安堵した。
これは「病名が分かった」安堵であり、「やっと的確な治療が出来る」安堵であり、
「ほら見ろ!やっぱり私は病気だったじゃないか!」という、的中してもらわないと困るぜ!みたいな安堵は一切なかった。
まぁ友人の膝や肩とはちょっと違って、私の場合は臓器関係で生死がかかってたっていうのもあるのだが、一応そういう経験があるので、その友人の不安な気持ちを分かってやれなかった。
良かったじゃん、何もなくて。健康一番だよ。って毎回声をかけていた。
その度に友人の顔は曇っていた。
 
因みに私は先日、健康診断の結果で1項目だけ今まで見た事ないシビアな結果を叩き出してしまい、再検査を促す紹介状まで添えられていたのでビックリして、病院へ行ってきたばかりだ。
もう、臓器関係は怖いわぁ。自覚症状ないし。身内が同じ臓器で癌やらかしちゃってるので、DNA的にもちゃんと検査しておいた方がいいだろうなと素直にすぐ行った。
他の項目はほぼほぼA判定だったのが余計に怖がらせてくるやん?
再検査の結果、何も問題なし!全然大丈夫!気のせい!とお墨付きを頂戴したのでマジで安堵したばかりである。
その報告を例の友人にメールしたら、心の底から喜んでくれた。
あぁ、もしかしたら今はもう違うのかもしれない。
今はもう不安が的中されてしまっては困る側にいるのかもしれない、とふと思った。(他人事だから心配するだけでいいっていうのもあるかもだけど)
 
そこで、あまり嬉しい話ではないが、これは年齢と関係するのかも?という気がしてきた。
お互いババァだ。
若い頃はココが痛いソコが痛いと言うだけ言っても異常なしなら明日があった。
「若気の至り」で済ましちゃって良かったわけだ。
だがもう現実的な死活問題として取り扱わないと明日っていつ?といった具合には充分加齢だ。
若くて健康だから不安が生まれちゃっていたのかな?

本人は真剣に不安だから、私のこういう持論は口に出さないし、その不安に寄り添う事も出来ないから申し訳なさもあるんだけど、寄り添えずとも聞く事は出来るな、と思って過ごしてきたら遂に自分の理想の死に様を語り合うような年齢になっていたのだな。
時の流れ~。
 
まだまだ明日がなければ困る。
私はまだ「ババァの至り」を発揮していないんだから。

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