世界で一番好きな(のかもしれない)音楽⑫/18人の音楽家のための音楽 コリン・カリー・グループ
最後の弱くかすれた一音がバイオリンの弦から放たれて空間へと切り離される。コンサートホールの広い宙の中で音が霧散してゆき、音楽家たちはその場でピタリと動きを止めたまま辺りは静寂に包まれていく。一時間という長い時間の中で演奏家から醸成された音の運動が、体の中で頭の中で耳の中で無音の動作として働き続け、緊張の糸は張り巡らされたままだ。息を呑む長い沈黙。やっとのことでリーダーのコリン・カリーが宙で止めたスティックを緩めると、客席から自然と拍手が繰り返し何度も沸き起こるが、流石にアンコールなんて無いので、演奏したグループは拍手の度に挨拶と退出を何度も繰り返していた。
4月22日に行われたコリン・カリー・グループによるスティーヴ・ライヒ演目のコンサートに行ってきた。以前からスティーヴ・ライヒの「18人の音楽家のための音楽」を生で聴きたいと思っていて、2008年に公演はあったがそれには行かずにいたことがずっと心の中で燻っていた。4月21日と4月22日の二日間に渡って、スコットランド出身のコリン・カリー・グループによるライヒの曲目コンサートが開かれると知りチケットを申し込む。日本での演奏が十五年ぶりなので、これを逃すとまたいつやる事になるのか皆目検討がつかない。とりあえずチケットさえ取っておけばなんとかなる。
今回のコンサートの曲目は、2007年のダブル・セクステットと、日本初演となる2020年のトラベラーズ・プレイヤー、そして代表作18人の音楽家のための音楽が演奏された
六重奏曲が二組で組まれた「ダブル・セクステット」は、ライヒらしいミニマルな曲で、ライヒ作品によく見られるFast-Slow-Fastの三つの構成。緩急が付いたダイナミックな演奏が、ラストでフォルテッシモで締め括られる。声楽を活かした「トラベラーズ・プレイヤー」は、コロナ禍の最中で作られた新曲。「テヒリーム」や「ザ・ケイヴ」の流れを汲む緩やかなテンポの声楽曲。
そしてメインとなる「18人の音楽家のための音楽」がラストに演奏された。ライヒがブレイクするきっかけとなったこの曲は、恐らく多くの人がECMのNew Seriesでリリースされたアルバムと、ノンサッチからリリースされたものを耳にしていたと思う。
僕は特にノンサッチ盤を愛聴していたけれど、どちらにしても緻密に構築された楽曲と、正確無比なクールな演奏の温度感が両レーベルらしいパッケージだなと感じていた。さざなみの様に押し寄せる楽器の組み合わせによる音の連続のパルスが、感情とは別に沸き起こる起伏を体で感じる快感が耳と体に染み込んでいる。今回コリン・カリー・グループの演奏で感じたのは、それまで抱いていたクールな演奏の印象とは全く異なる躍動感だった。断片から一音ずつ広がっていくフレーズや、時折顔を見せるメロディラインの叙情性がこれまで聴いてきた演奏よりも強く強調されていて、延々とかつ淡々と奏でられるパルスの横で扇情的にダイナミクスを描く。楽器が持つ音量の音のダイナミクスと、楽曲が内包するドラマ性が最大限に引き出される。当然ではあるが、演者によってここまで曲の表情が異なるのかと改めて気付かされた。アンチロマンというか、物語性を感じさせないミニマルミュージックで、感極まる感情が湧き上がるとは思ってもみなかった。正直なところ、パルス音を聴く耳の快楽だけを期待していただけに、聴き終わった後に耳に残ったのは楽曲に潜むメロディラインやそこで沸き起こる躍動感だった。楽譜上でも機械的な動作が求められるこの曲の中に、こんなにまで美しい瞬間があったのだとまざまざに感じさせる所が、音楽の面白い所ではないだろうか。(面白いといえば、この曲は18人全員が楽器に面する事は無く、長い休符の間に椅子に座って待機するメンバーが必ず出る。リーダーのカリーも、椅子とマリンバとシロフォンを行ったりきたりしていた。)
そんな感情への揺さぶりへの反面、ミニマルなパルス音の低音部分の抜き差しがハッとさせる。マラカスが入るセクション6でのヴィヴラフォンが導入をうながしながら、ユニゾンへと誘う場面など、低音が姿を消しパルスがシロフォンなどの高音楽器へと移る時に新たな緊張感を生み出す。
バスクラリネットの畳み掛ける様な低音のさざなみと、それを補う弦楽器ふたりと声楽隊のフレーズ。心地よいパルス音は眠気を誘い、何度か寝落ちしそうになった。緊張と弛緩。最後のバイオリンのかすれた音色を聴いた時、緊張が舞台の辺りを包み込み、体の中に持続するパルスの躍動が静かに残される。会場の熱気と拍手。もしここで客席側から拍手じゃなくてクラッピンク・ミュージックが叩かれたら、面白いだろうななんて事を頭に浮かべながら会場を後にした。