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「ジョアン・ジルベルト初期三部作をリマスターされた音で聴く」

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宮田茂樹さんが秘蔵するジョアン・ジルベルト初期3部作のオリジナルテープからのリマスター音源を聴くイベントに行ってきた。司会はブラジル音楽を広く紹介している中原仁さんで、バイオグラフィーを捕捉し進行役を担いながら宮田さんを支えていた。

昨年の3月に風知空知で試聴会を行なっていたので、初ではなかったもののこの時の会に参加出来なかったので、やっとこの音源に触れることが出来た。

先に結果から言えば何故この音源が公式にリリース出来ないのか、世の中の不条理をまざまざと突きつけられるくらい素晴らしいクオリティだった。

試聴会の流れ

今回の試聴会はアルバムをA面、B面を想定して盤をひっくり返すタイミングで、間にそれぞれの解説を挟むものだった。曲の解説と聴きどころを説明してA面を聴く。次の曲の解説と聴きどころを説明してB面というかたちで進行していた。
というのもCDと違って、レコードのA面B面はそれぞれの頭に入っている曲がアルバムのテーマとなっているとかんがえられる。A面の始まりから終わり、そしてB面の始まりから終わりという流れを意識して曲順を組んでいたと思われる。そうやって意識して聴いていきたいという宮田さんの説明が入った。確かに一枚目のA面のChega de saudadeとB面のDesafinado、二枚目のA面のsamba de uma nota soとB面のMeditaçaoはアルバムを代表する曲で、その軸を意識しながら聴くと何を聴かせたいのかテーマが明瞭になる。CDでは全てが一つの流れになるのに対し、レコードでは前後に分断されるというフォーマットの違いを強く意識させられた。まあこの辺りは普段からレコードに触れていると感じていることではあるものの、改めて考えるきっかけになった。
かつてジョアンの来日をプロモートしていた宮田さんによる、ジョアンと接した時の話は当時のプログラムにも書かれていた事がほとんどだったものの、そこには載っていないジョアンとの距離が縮まったきっかけの話をしていた。
ジョアンら一行との懇親会が朝方まで行われた時、周囲の人間が帰路についてしまいジョアンと宮田さんが二人きりになってしまい少し気詰まりな雰囲気になってしまったという。その時に「Modena boca de ouroの最期のスキャットで歌っていない部分があるのだけどあれは何?」とジョアンに振ったところ、ジョアンは「そこについて指摘されたのは初めてだ」と話しそこから「ミヤチーニョ」と呼ばれることになったという。(語尾につく〜inhoは愛称を意味する。〜ちゃんのようなニュアンス。関係の近さを表している)。

リマスター音源について

過去に書いたジョアン・ジルベルトガイドでも触れているが、ブラジルオデオンでリリースされたジョアンのアルバム三枚はオリジナルリリースがあり、1980年代まで廃盤になることなくラプレスされている。O Mitoという三枚をコンパイルしたアルバムがリリースされた事で、訴訟騒ぎになる。モノラル音源の疑似ステレオ化や無理な編集など、作品の意図を無視した作りはジョアンの怒りを買うことになり初期3部作は長らく聴くことができない状態が続いていた。この辺りの経緯はラティーナ2019年9月号に宮田さんによる詳細が載っているので、そちらを参照いただきたい。

不完全な状態が続いていた初期3部作はオリジナルテープの発見により、リマスターを施され今回の試聴会での公開に至った。
O Mitoの音源を修正したものが現在CDやレコードで入手可能であるものの、これらはオリジナルマスターからのリマスターではない。今回の試聴会の後に僕が所有するサードプレスと思われるレコードを聴いたが、今回のリマスターと比べればくぐもって聴こえる。前置きが長くなったがリマスターの感想に移りたい。
試聴会はリマスターのデジタルデータをMacBook Airからステレオミニプラグでいーぐるのオーディオへアウトしていた(オーディオインターフェースで出力していればさらに音質は向上していたと思う)。三枚を聴いて感じたのは、とても60年前の作品とは思えないエバーグリーンな作品群だなと改めて感じた。実のところブラジルオデオン時代の3部作は、その後のアメリカ時代以降のクールを装った表現とは異なり、かなり熱がこもっている。とくにDesafinadoは歌詞とジョビンの複雑怪奇な和音感覚とジョアンの歌い上げる表現がカタルシスを生み出している(個人的にこの曲が初期作の中でベスト)。その瑞々しさがどの音源でも感じられないくらい生々しく響いていた。
曲単位でいえばSaudade fez um Sambaと、A los pes da cruzのような一見見過ごしがちな曲が持つ説得力のようなものに思わず涙してしまった。E luxo soのドライブするジョアンのバチーダとミルトン・バナナのブラシ捌きは今まで聴いてきたものよりもグルーヴを感じることができる。
全て触れるとキリがないので割愛するが、ジョビンが施したアレンジもそれまで聴き取りにくかったものがくっきりと聴こえるようになっている。ストリングの煌びやかな響きや、トロンボーンなどの低音もそれまでにはなかった底から響く音が鳴っていて、これまで聴いてきたものはなんだったのかと思わされるを得ない。
いーぐるの音響は個人的にはのっぺりと平面であまり好みではないものの、それを凌駕する感覚に包まれた。
ジョアンの作品の中でも中途半端な内容になってしまった、サードアルバムのテーマのブレまでもあからさまにしてしまっていた。サードアルバムが中途半端なものになってしまった経緯はガイド③を参照いただきたい。

とにかくブラジルに限らず、世界的に影響を与えたこの三枚が当初想定された表現のままリリースに至らないということに気持ちがもやもやとしつつも、この音源がいつかオフィシャルでリリースされる事を願う。時代のミッシングリンクではなく超越したポップのスタンダードとして君臨する時代が来ることを。

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