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ルイーサ・マドリガルはただの力持ちなのか?

この記事は、映画“ミラベルと魔法だらけの家“の内容に触れています。ご安全に💫​


先日、仕事でハードな移動スケジュールを組んでしまい、乗車したい電車が1本狙い撃ちになってしまったことがあった。

その日は電車を1本でも逃すと得意先の部長面談に99.9%遅刻をする地獄みたいな運行表だった。前の打ち合わせはその心配を知ってか知らずか伸びた。スマホの画面で現在時刻を確認した。10:37、あと1分で電車が発車する時刻だった。私はまだ駅にも辿り着けていなかった。

正確には改札から約200m、ホームから約250mだった。私は50mを6.8sで走り抜けることができる。理論上は100mを14s弱で走ることができるはずだった。高校1年生で私の中で時は止まっていたらしい。電車には乗れなかった。

結局どうなったかというと、ルートを変更し、乗り換えを全部で3回に増やし、間際でタクシーを拾えたことで事なきを得たのだった。0.1%の方法を以って打ち合わせには間に合ったので今はここを掘り下げることはしない。(その3回に増やした乗換の間におにぎりを食べたが、大井町駅ニューデイズの店員さんがとても親切だった話も今度だ。)

話したかったのは走ったことだ。走ったら苦しかったのだ。

マスクをしていたせいもあるだろうが、直線の道、階段がつらかった。私は“老い”を感じていた。学生時代やついぞ1〜2年前まで全力で走っても、走ったな〜と思うだけで何も感じなかったのに疲れたし、苦しかった。あと数秒、数歩の差で電車に間に合わなかったのだ。大きな言葉を使いたいわけではないが、絶望に近いと思った。


本題だ。ミラベルと魔法だらけの家で、ミラベルの2番目の姉、ルイーサの話をする。ルイーサは作中で力持ちのギフトを授かり、町の人の助けになりたいと、ヘルプの声にいつも応えている。

マドリガル家の中で、イサベラ、ルイーサ、ミラベルの3姉妹は、“誰か“の期待に応えたいという思いが異常に強いように感じる。ペパとフリエッタ、特にペパ側の家族は自分の力を個性として認識しているようで、誰かのためにギフトで得た力を使うこともさながら自分のために力を使うこともある。(ex.おかわりが食べたいカミロ、盗聴をするドロレス等)

形は違えど3姉妹はそれぞれ、期待に応えたいという思いと、応えなくてはいけない、がイコール、むしろ後者が大きい。ルイーサには強いという個性がある。

持てなくなったら?押せなくなったら?運べなくなったら?守れなくなったら?逃げたら? ーーー私に価値はないの?

映画の中では結構序盤でルイーサの抱えているプレッシャーについての歌を聞くことができる。ずっと何かと闘う彼女の心の声が聞こえる。みんなのため、家族のために潰れられない強さ、私が私であるためにある強さ。

POWER=力、電源、権力、勢力、機能、強さ

ルイーサの象徴、パワーという言葉を調べると上記のように様々な意味を持っていることがわかる。ルイーサは作品の中で力がなくなることを他の誰よりも悲しんでいた。それは上述のような、権力や勢力といった何かを支配したり統率する力を失うことの人の普遍的な恐怖を描いた可能性もあるのではないか。

ルイーサはミラベルに顔を見て不安ごとを当てられていた。当てられて弱音を吐いていた。当たり前だ。走りっぱなしは疲れるのだ。

冷静に私は、走ったら疲れたこと自体は別に悲しくはなかった。苦しかっただけで、別にリカバリーもして打ち合わせには間に合ったし、昼だって抜かずに済んだ。走って疲れて苦しくて電車にも乗れなかったけど、誰も私を否定しなかった。自分を含めて。


自分の価値を「自分ができること」にフォーカスするのは実は結構危ないんじゃないかなと思っている。何かができるから自分なんじゃなくて、自分というものがそこにただ在る。価値の有無で、自分が他者に対して供給できる何かで価値が決まるのはゴメンだ。

ルイーサは力持ち=強くてしっかりした、パワーの象徴だと思っていたが、不安の象徴であると考える。ルイーサがいることでマドリガル家の他のメンバーからは不安が消えるのではないか。

他の姉妹についても考えたいが、今は夜中の1:03なのでここで筆を置く。しっかり休んで、ハンモックでジュースを飲んで、お日様を浴びる夢を見よう。

おやすみ。

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