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フェイクドキュメンタリーをおすすめしたい話

「この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません」
今や多くの作品、特に実際の事件や個人が題材となっており、かつドキュメンタリーの体を取らない作品でほぼ確実にこの表記がなされています。

この注意書き、初出については1960年発表の三島由紀夫連載作品「宴のあと」とのことです。

「この物語はフィクションです」の始まり

「フィクションである」という掲示の初出は、『宴のあと』連載最終回で「実在の人物とまぎらわしい面があり、ご迷惑をかけたむきもあるようですが、作品中の登場人物の行動、性格などは、すべてフィクションで、実在の人物とは何ら関係ありません」という“断り書き”を『中央公論』に掲載したものと思われる。

毎日放送の番組審議室によると、「この物語はフィクションです」というテロップは『宴のあと』裁判でプライバシーに関する論議が盛んになり、ドラマの最初もしくは最後に放送するようになったという。

宴のあと - 「この物語はフィクションです」の始まり - わかりやすく解説 Weblio辞書

「フィクション」表記のもともとの目的としては、誤解から生まれるトラブルの回避、実在人物と名称が被ってしまった際の保険、などコンプライアンス上の配慮だということがわかります。


「フィクション」に求められた役割


「フィクション」表記とともに筆者の思い出を振り返ってみます。まず思い出されたのは、00年代初頭に放送されていた「USO!ジャパン」。TOKIOやタキツバ、嵐といった豪華な面々が印象的な都市伝説・ホラー・ミステリーをテーマとした番組です。
この番組では最後にこのような表記がなされていました。

番組の最後には暗い空色バックに薄い白文字で「USO!?ジャパンはすべて噂をもとに構成されています。すべての情報がホントかウソかは不明です。なにしろ噂ですから…」という注釈が表示されていた。

USO!?ジャパン - Wikipedia

またこの年代では、ドキュメンタリーのようなフィクション作品、いわゆる「フェイクドキュメンタリー(モキュメンタリー)」ジャンルの金字塔「放送禁止シリーズ」も開始されています。

「ある事情で放送禁止となったVTRを再編集し放送する」という設定の、一見ドキュメンタリー番組だが実はフィクションというフェイク・ドキュメンタリー(モキュメンタリー)である。当然ながら架空の設定であり、本当に放送禁止になった映像や出来事を使用しているわけではない。

放送禁止 (フジテレビ系列のテレビ番組)wikipediaより

一部の好事家に向けた作品として2003年4月1日、エイプリルフールの夜中に放送されました。この作品の最後に上がる注意書きは下記の通り。

この番組はフィクションです
しかし、以下の事象・人物は実在します(以降作品内で登場した専門家の意見や公式発表のデータなど)


この表現だけで見れば、「嘘の部分もあるけれど、本当の部分もあるよ」「全部が全部フィクションではないんだよ」という折衷が表現の中でなされていると取れます。

真偽のほどは不明ですが、当時この注意書きがあったにも関わらず、ギミックとして用意された「真実」をノンフィクションと捉えた視聴者によるクレームにも近い意見が放送中、あるいは放送終了後に番組に寄せられたこともあったそうです。

また、2010年代にオカルトブームを加速させた「やりすぎコージー」の決め台詞「信じるか信じないかはあなた次第」に関しても、「フィクションかどうかを決めるのはあなた」という投げかけの形が取られています。
真偽の判断を視聴者に委ねてトラブルを回避しつつ、なんとなく「五分五分の確率で真実かもしれない」と錯覚させる実にクレバーなフレーズです。


「防衛から挑戦へ」

このように、コンプライアンスへの配慮から始まった「フィクション」の注意書きは、00年代以降、少しずつ変化を見せており「視聴者のリテラシーに委ねる範囲」を広げていったように見受けられます。

そして近年では、「フィクション」表記に新たな役割が付与され次のステップに進んだと見ることができます。

登録者人数26万人超(2024年4月現在)のYouTubeチャンネル「フェイクドキュメンタリーQ」を例に挙げます。不気味な映像や意味深な構成、各動画の背景のつながりなど、ギミックに溢れたホラーミステリーコンテンツなのですが、チャンネル名を見てわかる通り、すでに「フェイクドキュメンタリー」つまり、フィクションだと記載されています。

ホラーコンテンツはその特性上「これは本当なのかもしれない」「フィクションの作品が蔓延っているけれども、これにはホンモノが映り込んでいるのかもしれない」といった期待が視聴の動機づけになることがあります。

当然、真実でないこと、創作であることを前提としたホラーコンテンツも無数に存在しますし、このチャンネルもフィクションだと認識した上で楽しんでいる人がほとんどでしょう。
しかしそれをおしてでも、ことさら「フェイク」とチャンネル名に入れるのは挑戦的な試みだと感じます。
視聴者からしてみれば、最初から作り物だと強調された、言わば興が覚めた状態がスタートラインになるからです。

他例として、ホラー作家「梨」氏の作品にもこの傾向が見て取れます。
ウェブメディアオモコロに投稿された「璃々菓 本名」を挙げると、意訳も含め実に3回に渡って「フィクションである」「架空」「存在しない」ことが強調されています。

同じ言葉を繰り返すということを愚直に受け止めるならば、その発信や意思を強調したいということでしょう。しかしコンテンツの性質上、あるいはことインターネットユーザーを対象とした場合だと、別の意図があるように思えます。それは「繰り返し訴えられると、かえって逆の感情が芽生える」という心理。「フィクションであることを過剰に強調することで、『こんなにしつこく言うなんて、逆に怪しくない?』という穿った心理を訴求する」、いわゆるカリギュラ効果の亜種のような仕掛けがなされていると見ることができるのです。

カリギュラ効果(カリギュラこうか)、別名カリギュラ現象(カリギュラげんしょう)とは、他者から行為などを強く禁止されると、かえって欲求が高まる心理現象[1]心理学における心理的リアクタンスの一種)を指す日本固有の用語。1980年の映画カリギュラ』に由来する。

カリギュラ効果 - Wikipedia

表現の自由が担保される一方で、コンプライアンスが高度化・複雑化し求められる配慮と責任も求められる今、ユーザーのリテラシーもそれに合わせて向上してきました。

そんな中で「フィクション」のあり方も保険、配慮といった防衛的なものから、メタフィクションの構造を取り、受け手に向けたメッセージの発信や挑戦といったアグレッシブなものに変容を遂げてきています。

上述の「Q」「梨氏」をはじめとする諸氏や、他のクリエイターのもと、多くの媒体でフィクションを前提とした作品が生まれており、SNSをはじめ、複数のメディアをまたぐ情報共有や考察がなされ、大きなムーブメントを起こしています(下記は一例、テレビ東京「TXQ FICTION」)。


作品は、より双方向性を増しており、フィクションという枠組みの中からじわじわと現実を侵食するような仕掛けが次々に生まれています。視聴者、読者、閲覧者は神の視点を持った第三者ではなく、完成度の高い作品の中のプレイヤーとして没入しながら、謎解きイベントやTRPGに近い空気感を楽しむことができます。

おそらく今後も多くのフェイクドキュメンタリー作品が生まれてくるでしょう。多くの方が作品を視聴し、世界に参加することで好事家が増えてほしいと思いながら、この怪文の括りとします。

この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません

おわり

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