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習作④-5「橋間③」

「君の気持ちはわからないけど、ある意味ではわかるかもしれない」
 ある夏の日の夕方、橋間はチューブのシャーベットを吸いながら足をぶらぶらさせていた。
「死ぬのが怖いのと死にたくないってことは違うんだろ」
 私はうなずいた。あまり実感の伴わないうなずきだった。
「俺たちはみんな人生に終わりがあるからまともに生きようと思えるんだよ、終わりがなきゃ、何したって構わなくなるからさ」
 俺は怖い、と橋間はぽそりとつぶやいた。
「生きることが怖い」
「生きることが怖い」と私は復唱した。言葉をなぞっただけでは、そこにこめられた橋間の思いはわからなかった。彼は私を見て笑おうとして、失敗していた。口元が半端に歪んでいる。
「とても苦しい、明日にでも消えてしまえたら良いと思ってる、いつも、いつも」
 眼鏡の奥の目が、空を見ていた。いや、多分、空よりも向こうだと思った。
「書くことはこの苦しさを形にしてくれる、存在証明みたいなもので、それだけが俺をここにつなぎとめてるんだ」
 ここってどこのことだろう、ここじゃない場所ってどこなんだろうと、私は聞きたかった。
 橋間は言葉をそっと地面に並べるような調子でぽつりと言った。左手がジャージの胸元を、ぎゅっと掴んでいた。中指にペンだこができていて、ああこいつ左利きだったっけ、とぼんやりと考える。
「この苦しみを飼い続けていたら、いつか俺はこいつに殺されるだろう。その前に、自分で死にたいんだ。まだ、自分の意志が残っているうちに」
 橋間は泣きそうだった。苦しくても言葉がよどみなく流れ出てくるところが、なんだか悲しかった。人は強い感情に支配された時、うまく喋れないものだと私は思っていたから。
「橋間は、人が好き?それとも嫌い?」
 私は、見当はずれなことを口にしていたと思う。他に聞きたいことが山ほどあるはずなのに、最初に口をついて出たのがこの質問だった。
「……難しいな、好きなときと、嫌いなときがある」
 橋間は少しためらってから、そう答えた。
「私は好きだよ」
 ブランコのチェーンを握りしめて、私は彼を見た。チェーンのひやりとした感触が私の背を押してくれたような気がした。
「人は、強くて脆いから」
 橋間はそれを聞いて、困ったような、泣きそうなような、そんな顔をした。くしゃっと音がするような表情の変化。
「強い人と、脆い人がいるんじゃないの?」
 この問いに、否定の言葉を挟むべきではないと思って、はいとかいいえとか言う代わりに、こう言った。
「強くて、脆いのが人なの」
 橋間は地面を見つめた。
「そうか……」
 しばらく彼はスニーカーの先で砂をかきまわしていた。やがて足が止まり、私の方を見て、紡がれた言葉は、こうだった。
「そうだね、そうだ、有栖」
 息を吸う音がした。
「君の考え方は、すごくいいね、俺は許された気持ちになる」
 何に許されたのか、どうして許されたいのか、そもそも許されたいと思っているのか、私はいろいろ考えたけど、私は橋間じゃないから、彼の考えていることや、彼の見ている世界のことを、なにひとつわかることはできなかった。簡単に「わかるよ」と言うのは、ひどく、自分の傲慢のような、そんな気がしたのだ。ただ、彼のためにというより、私のために、言いたいことを言うことにした。
「私は橋間が好きだよ」
 橋間がびっくりして言葉を失っていくさまを見るのは面白かった。
「好きだから、」
 死なないで、とは、言えなかった。
「幸せになって欲しいんだ」
 私が彼に押し付けたのは、精いっぱいのわがままだ。
「橋間が、人間を嫌いでも、人生が嫌いでも、生きることが怖くても、いいよ、でも、幸せじゃないのは、ダメだ」
 しばらく間があって微かにため息が聞こえた。笑い声にも、泣き声にも似ていた。
「……君ってやつは」
 橋間は私に手を差し出した。手を取ると、それはあたたかくて、私は心底ほっとした。不揃いな爪は相変わらずだけれど、温度があった。
「有栖、覚えててくれよ、俺が、いま幸福だってことを、ずっと」
 橋間は私の手をつかむ手に、ぎゅっと力をこめた。
「俺がここにいたことを、君だけは」
 ストレートではなかったけれど、それはきっと、彼なりの最上級の愛情表現だった。

 補足しておくけれど、私が橋間に対して思っていた「好き」はきっと、恋をしていたとか、そういうことではなかったと思う。もしかしたらそうかもしれなかったけれど、でも、恋じゃなければ、好きな人に好きと言ってはいけないのだろうか。女が男に好きと言ったというよりは、人間が人間に、好きと、言ったのだ。それだけは、覚えていて欲しい。

◇ ◇ ◇

 橋間と別れて帰宅したその夜、私は、うまく寝付けなかった。ひどく胸の奥がざわざわしていて、眠りに落ちることができなかった。
 目を閉じてじっとしていると、ふと、故郷の景色が思い出されてくる。そういえば、このくらいの季節には、よく散歩に行っていたなあと、思い出す。
 幽栖にぴったりの田舎だから、橋間が気に入りそうだなと、そんなことを考えていたら、私はうっかりベッドから転げ落ちてしまった。
 何やってんだ…とぼやきながら体を起こすと、土の匂いがした。ざらっとした感触がして、地面についていた手のひらを見ると、小さな砂の粒がついている。周りを見回すと、辺りは暗い部屋ではなく、夕暮れの田んぼ道になっていた。
 私はひとりでその道を歩くことにした。思い返すとわけがわからないのだけれど、私の意識はとてもはっきりしていて、その道を歩いていくということはそのときの私にとって、ごく自然なことだった。その場所は建物どころか家さえまばらで、ずっと突っ立っていたって誰も通りはしない。そんな、静かな場所だった。その場所にはとても馴染みがあった。故郷によく似ていたのだ。私は1人で田んぼ道を散歩しながら、広い空の色や、草や土の匂いが混じる風を浴びるのが好きだった。
 日は徐々に落ちかけていて、遠くからカラスや蝉の鳴き声がした。夏の終わりのような、暑いけれど少し涼しい、さみしい温度がした。
 しばらく道を歩いて行くと、ぽつりと、小さな家が建っていた。平屋で、古びた家だった。でも、庭は手入れされているようだった。ぴったりと閉じられた玄関の引き戸を見ていると無性に開けたくなって、思い切って手をかけた。戸はがらがらとやかましい音を立てて、あっさりと開いた。
 中に入ると、埃っぽい匂いと木の香りがした。橙色の暗い光が、薄暗い家の中をひっそりと照らしている。人が住んでいる気配など、少しもなかった。
 私は勝手知ったるといったふうに、家の中に入った。床がぎしぎしと音を立てる。進みながら次々と戸や襖を開けて、全ての部屋を確認していった。がらん、がらんと、誰もいない空間が出迎えるばかりで、ふと猛烈に、寂しくなった。
 最後にいちばん奥の襖を開ける。小さな和室に、ぎっしりと本が詰められた本棚が壁際に並んでいて、部屋の真ん中には机が置いてあった。そこでは、藍色の甚平を着た男が1人、こちらに背を向けて何か書き物をしている。
 顔を見なくても、その男が橋間であることはすぐにわかった。
「もうすぐだよ、有栖」
 こちらを振り向かないまま、橋間はそう言った。
 橋間の姿がちゃんと見えているのに生き物が住んでいる気配が一向にしないことに、私は胸が冷える感覚がして、部屋に一歩足を踏み入れた。夏の夕暮れの中に畳の匂いがじんわりとにじむ部屋だった。
「橋間」
 私の声は、滑稽なほど震えていた。
「書かないで、橋間」
 橋間が振り向いた。暗い橙色の光が、彼の顔を照らしている。傾いていく陽の色が、私を焦らせた。
 でも、橋間は全てお見通しだとでも言うように、そっと笑った。
「君がいちばん最初に読んで」
 私はその顔を見た瞬間、足をふらつかせながら彼に飛びかかった。突然の動きに足がついて来ず、膝をがくりとつきながら、彼の細い腕を掴み、その手から万年筆を奪い取る。鈍い銀色のペン先が私に、「これで手を刺せ」と訴えでもしているかのように、ぎらりと光る。そうだ、これで、これで書けなくしてしまえば……。
「有栖」
 橋間は万年筆を振りかざそうとした私に向かって左手を伸ばし、頬に触れる。生き物とは思えないほど冷たい手だった。
「こんなところまで来てくれて、ありがとう」
 細い手が、私の頬を撫でた。
「有栖、君は有栖だから、居場所がある人だから、明るい、あたたかいところで、生きるんだよ」
 手は、私の頬を撫でているのではなくて、私の涙を拭っているのだと、その時気づいた。
「橋間、橋間いっしょに行こう、ね、一緒に帰ろう」
 私はほとんど喘ぐようにして喋っていた。
「有栖、俺の家はここだよ、俺の居場所は、ここだけなんだ」
「こんな寂しいところが?」
「そうだよ、ここにこうして住んで、ひとりで朽ち果てていくのが、俺の夢、幽栖の、幽栖の夢」
 私は泣き叫びそうになった。
「やだ、やだよ、やだ、橋間……」
 橋間は私の指を優しく開かせて、万年筆を取り返した。彼はずっと、うれしそうな顔をしていた。
「有栖、来てくれて、ありがとう」
 橋間は私の顔から手を離して、自分の左手を目掛けて万年筆を思い切り突き刺した。そういう用途のものではないから、大して深く刺さることはなかったけれど、細い手から真っ赤な血がこぼれて、畳に落ちて行くのを見て、私は崩れ落ちた。橋間が刺したのが右手ではなく、左手だったからだ。
 この人はもう、書き終えてしまったのだ。
「君は帰るんだ、振り返らずに」
 傷ついた手が、私の前にそっと差し出される。
「俺を、覚えていて、忘れてもいいけど、覚えていてよ」
 私は泣きながら、両手でその手をとった。不揃いな爪の、細く美しい手だった。私はそこに口付けた。血の味がした。
「俺は夢を叶えた。有栖、どうか君が、最初に俺を見つけてね」
 顔を上げると、母親を見つけた迷子のように、橋間は泣きそうな顔で笑っていた。 
 いつまでもその家にいたかったけれど、私はそこの住人ではないということを、心の底から理解していた。私は特別に招き入れられた客人なのだ。帰らなければならなかった。本来ここには誰も来てはいけないのだ。
 本当はそんなことをせずに、そこにいたかったのに。
 でもそこにいることを許されない私は、何かにとりつかれたかのように、ふらふらと、部屋を出ていく。背中から、橋間の声が、ふりかかる。
「さよなら、有栖、君は幸せに生きるんだ」
 はっとして振り向くと、閉じられていく襖の向こうで、夕暮れの中、橋間は私を見て、確かに笑っていた。

◇ ◇ ◇

 そして気がつくと、見慣れた天井が目の前にあった。私は自室のベッドの中にいた。
 今見たものは夢か、本当に夢か?生々しすぎた光景を思い出すだけで激しい動悸がする。橋間の手の冷たさが忘れられない。夕暮れに似た朝焼けの色が部屋の中を照らしていて、私はひどく、嫌な予感がした。
「橋間に会いにいかなきゃ……」

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