習作⑤「Yについて」

 ときどき、苦しさが頂点に達しようとしたときに、思考が暴走することがある。そういうとき、僕は必ず、君を思い出す。

「僕は君を殺したい。君ごと僕の中にある卑屈さを殺したい。全部君のせいだ。君が悪い。僕が友達を、僕によくしてくれる人をいつまで経っても信じられないのは、君のせいだ。」

 これは、打ったまま消せないメモだ。

◇ ◇ ◇

 中学に上がったばかりの頃、こんな僕にもまだ友達がいた。その子は背が低くて、黒髪をいつもポニーテールで結んでいて、笑うとえくぼができるかわいい女の子だった。彼女は明るくてみんなの輪に入るのが上手で、女子とも男子とも仲良くできる子だった。勉強は苦手だったけど体を動かすのが好きで、休み時間はよく外で遊んでいた。もちろんみんなで。誰にでも好かれる子だった。彼女は聞き上手で盛り上げ上手だったから、一緒に話していると誰もがとてもいい気分になるのだ。絵に描いたような人気者だった。僕と彼女とは、小学校の頃から付き合いがあった。
 言わずもがな僕はこんなんだから、たいして友達は多くないし、というかほぼいないし、クラスにあんまり居場所もなかった。まあそんなことはもうどうでも良くて、今したいのは彼女の話だ。

 彼女の名前を便宜上、Yとする。
 Yは僕のことを「みこちゃん」と呼んでいた。僕はその呼び名をとても気に入っていた。かわいらしい呼び名に普段なら違和感を感じるはずなのに(僕がかわいいという価値基準を持ち込まれるのを嫌っているから)。彼女が少し離れたところから僕を見つけて、笑ってみこちゃんと呼ぶと、その名前は宝石のようにきらきらと光って僕の中に入ってくる。僕はぎこちなく笑って彼女の名前を呼び返す。その瞬間は、とても幸福だった。

◇ ◇ ◇

 これは、小学校5年の時に行ったキャンプでの話。その日の行程には夜に蛍を見にいくイベントがあった。夏だったけれど山の夜は涼しくて、先生のあとに子どもたちがぞろぞろと列をなしてついていく。この列は自由な列だった。班ごとなどではなくて、好きな友達と一緒に歩いていいことになっていた。僕は1人になるかなと思っていたけれど、たいして仲良くない同じ班の子たちと一緒にいるくらいなら、1人の方がよほど良いと思っていた。スニーカーのつま先を見つめながら、周りの声がわいわいと、それぞれの友達の輪に集まっていくのを聴いていた僕の腕を、Yが掴むまでは。

 Yがそのときどんな服装をしていたかとかもう覚えていないけれど、ポニーテールをくくっていたのがふわふわのシュシュだったことは覚えている。ピンクと白のかわいらしいシュシュで、彼女によく似合っていた。確か触らせてもらったことがある。ふわふわだった。

「みこちゃん」
 掴まれた腕の感触と、宝物のあだ名を変わらず彼女に呼ばれた幸福で、僕は緊張していた。
「〇〇ちゃんたちと行かないの?」
「うん」
 僕が聞くとYは少しうつむいて、目を逸らして笑った。僕は彼女がいつもいるグループの子たちの方をそっとうかがってみた。そのグループのリーダーの女の子はこちらには目もくれずに騒いでいたので、僕は安心した。僕はその子に嫌われていたからだ。
「みこちゃん、一緒に行こう」
 暗闇の中で、彼女が言った。すぐに、先生が大きな声を出して何か指示をするのが聞こえて、子どもたちの列が暗闇の中ぞろぞろ動き出した。僕とYは列の後ろの方にまわって、2人並んでそれについていくことにした。

 しばらくじゃりじゃりと地面を歩いていく音だけが僕たちの間に流れていた。僕はともかく、Yの口数が少ないのは珍しいことだった。せっかく2人で一緒にいるのに何も話せないのが惜しくて、僕は頑張って彼女に話しかけた。
「Yちゃん、蛍見たことある?」
 Yは僕の声にびくりと肩を震わせた。僕はそれを見て、それはもう、とてつもなく慌てた。
「ご、ごめん、急に話しかけて……」
 言葉を繕おうとした僕の手を、彼女の手が掴んだ。
「手……」
 衝撃で、用意している途中だった言葉が全部消し飛んだのを覚えている。

 Yは泣きそうな顔で僕を見ていた。

「手…つないでていい?」
 彼女が震えた声で言う。
 僕たちはまだ小学生だった。高学年になって頻度は下がっていたものの、手を繋いで帰ることはたまにあった。でもなぜだかこのとき、僕はとても緊張していた。
「いっ、いいよ…」
 そっと手を握り返すと、彼女の顔がたちまち歪み、泣き出してしまった。何もかもが僕には想定外のことだった。前を進んでいく列がぞろぞろと動き、たくさんの人間の足音が聞こえて、暗闇の中で葉っぱと土の匂いがする。子どもは懐中電灯を持たされていなかったので、人の列が動く気配だけが道標だった。

 驚いて立ち止まった僕の横で、Yはぐずりながらこう言った。
「ごめっ…ごめんね、わたしね、こっ、こわいの……暗いと、こわくて……ごめんね……みこちゃん、ごめんね…」

 そのときの僕には、何をすべきなのかすぐにわかった。いつも日陰にいるのは僕の方で、僕を見つけて気遣ってくれるのは彼女の方だったから、いつも何かを「してもらっている」のは僕の方だったから、いつもなら慌ててしまうところだと思ったけれど、僕は不思議と、とても落ち着いていた。ぼろぼろ泣いているYの手をぎゅっと握り返して、僕は言った。
「大丈夫だよ、手え握っててあげる、一緒にいるよ」

 そうして僕はYの手を引いて夜の中を歩いた。月も星もない、真っ暗な夜だった。彼女はしばらく泣いていたけど、ちゃんと一緒に歩いて列に追いつくことができた。蛍が見られたかどうかは覚えていない。
 これは特別な思い出だ。僕が僕に自慢にできる思い出。Yが僕のところに来てくれたのが嬉しかった。勲章にしたいくらいの喜びだったのだ。

 その半年後、僕はクラスの子から、こう聞かされた。
「Yちゃん、『あの子と一緒にいてもつまらない』って言ってたよ、ひどいね、仲良しのふりしてるんだよ」
 僕はそれに一言も返せなかったし、本当かどうか、Yに確かめなかった。僕はその日、帰ってからほとんどご飯を食べられなかった。

◇ ◇ ◇

 僕たちは小学校を卒業し、同じ中学に進学した。田舎だから、地区ごとに行く先は決まっていた。大学の附属中に行くことを先生に勧められたけれど、新しい環境への恐怖でそれを断った。居心地が悪くても、このままの環境の方がまだマシだと思っていた。
 中学には他の地区からの子も来ていて、人数は倍に増えた。とはいえ、僕の出身校から来ている生徒が半数を占めていたので、僕たちがマジョリティだった。Yは相変わらず人気者で、新しい友達もたくさん作って、吹奏楽部に入った。
 僕とYの関係はというと、これもまたたいして変わりがなかった。クラスが違かったのだけれど、廊下ですれ違えば挨拶してくれたし、朝は一緒に登校していた。彼女が僕に見せる笑顔は変わらなかった。

 彼女の笑顔がくるくるまわる。

「おはようみこちゃん」「やっほーみこちゃん」「楽器何にする?」「みこちゃんテストすごいね?!」「みこちゃん」「みこちゃん」………

 僕は元来ひねくれた性格をしていたのだと思う。Yの言動を、ふとした瞬間に信じられなくなっていた。彼女が笑っても、話しかけてきても、みこちゃんと何度呼んでも、燃えるように胸が痛んだ。あれは嘘だ、本当は僕のことが嫌いなのに無理やり笑ってるんだ、僕のことをきっと陰では笑ってるんだ。いや違う、あんなに優しい子なんだぞ、知ってるだろ。何言ってるんだ、お前なんかに優しくするとか、嘘に決まってる。僕の中では彼女を信じたい自分と疑ってかかる自分がせめぎあっていた。
 少し冷静になれば、Yがそんなご丁寧な演技を毎回できる人間でないことくらい、僕にもわかるはずだったんだけど、そのときの僕の判断力は下がりきってしまっていた。

 5月の連休明けに、僕はもう自分の中のせめぎ合いに耐えられなくなっていた。Yのことを好きな気持ちと、嫌われているならこっちから嫌ってやろうと思う気持ちが、毎日ぐるぐるしていた。性自認への違和感も、思春期に入っていくにつれ爆発的に大きくなってきていた。いろんな良くないことが僕の中に同じタイミングで起こって、身を削るような思いで日々過ごしていた。その頃からパニック発作が定期的に出てくるようになった。朝はひどく気分が下がり、ご飯も喉を通らず、学校へ行きたくなくなった。Yの家は中学に行く道の途中にあったので、僕がピンポンをして一緒に行くことになっていたのだけれど、僕は連休明けから、それができなくなった。父が彼女の家に電話をかけて謝っている後ろ姿を、僕はパジャマを着たまま見ていた。それから先はまあ、お察しの通りだ。僕は先生に勧められて保健室登校になり、そこで佐倉先生に出会い、学校という場所がトラウマになった。そのことについてはここで話したくない。こうして僕の学校生活は早々に終わりを告げた。

◇ ◇ ◇

 僕はYが好きだった。親友だと思っていた。僕と彼女の関係は特別で宝物で、僕が困っている時は彼女が必ず助けてくれた。僕も彼女が困っているときは助けたかったし、何より、彼女の悪口は死んでも言わないと心に決めていた。でも彼女は違った。
 真偽のわからない事実を僕は信じたくなかったし信じようとしなかったし、必死で追い払おうとしたのだ。Yの笑顔が仮面に見えて、彼女の声がゆらゆら揺れた。夢の中で、彼女が僕の悪口を、何度も何度も言っていた。僕の方を向くときは、仮面をつけるのだ。そうして僕に、木でできた、偽物の手を差し伸べてくるのだ。

 中1の冬休みになる直前の、ある日の夕方、僕は父さんと一緒に学校に行った。僕が何とか登校できるようにとカウンセラーがいろいろ頑張ってくれて、人がいない時間に教室に入ることはたまにしていた。その日も少しだけ先生と話して、授業のようなものを受けて、保健室の前を絶対に通らないように気をつけて、僕は廊下を歩いていた(佐倉先生のことは誰にも話していなかった)。父さんは先生と話すために別室に行っていた。学校の中を1人で歩けるようになることも訓練のひとつだったから、いや案外それは平気だったのだけれど、僕はぶらぶらと歩いていた。その日は部活がない日で、生徒は誰も見かけなかった。はずだった。

 教室に戻った僕は、Yに出くわしたのだ。冬の灰色が差し込む教室のドアの前で立ち尽くした僕の心臓は止まりかけて、僕を見つけたYの顔は驚きで満ちていた。そのとき僕は私服を着ていた。地味な色のジーパンにパーカー。まだ長かった髪は、視界に入らないように後ろでひとつにくくっていた。対してYは学校指定の体操着に、マスコットがついたスクールバッグを肩にかけて、相変わらずの快活そうなポニーテールといういでたちだった。校則でアクセサリーは禁止されているため、髪をくくっているのは地味な色のゴムだったけれど。
 格好の違いだけで、僕たちは同じ世界を生きていないことを、瞬間的に悟った。

「みこちゃん……?」
 その呼び名に吐く息が震えた。早く立ち去ればよかったのに、僕はできなかった。Yが駆け寄ってきて、僕の手を握った。
「久しぶり…!元気だった?あのね、今日忘れ物しちゃってさ、それで、取りに来たんだよ」
 まさかみこちゃんに会えるなんて、と、言う彼女の顔には、安堵と喜びと心配とがごちゃまぜになった感情が見て取れた。胸元のあたりまで下げられた体操着のチャックがゆらゆらしていた。
「みこちゃん、また、学校来る?ええと、みんながいるときに…」
 首を横に振った僕に、彼女は笑った。苦笑いではなかった。
「そか、じゃあ、おうちに遊びに行ってもいい?まだ返してない漫画あるし、覚えてる?5月の、連休前にさ」
「Yちゃん」
 僕は彼女を遮った。彼女を前にして正気でいられなかった。夢のように、その笑顔が仮面に見えていたわけじゃない。握られた手の温度はきちんとあたたかくて、彼女の存在が放つ色と温度は相変わらず泣きたいくらい大好きなものだった。それでも僕は、愚かな僕は、彼女を、傷付けたくて、たまらなくなった。全くナンセンスな復讐を、したくなったのだ。

「僕のこと、嫌いだろ……」

 その日、僕は生まれて初めて身内以外の人間の前でその人称を使った。Yの表情が一瞬凍りつく。教室の時計がカチッと音を立てて、それに合わせるかのように、彼女の表情に力が入った。怒る前の顔だ。背筋がひやりとした。もうこの時点で僕の負けだったのだけれど、彼女の言葉は僕に追い討ちをかけた。

「どうしたの、そんなわけないでしょ、大好きだよ、みこちゃん、わたし、みこちゃんだいすきだよ」
 その言葉には強く力がこもっていた。彼女は目をカッと見開いて僕を見据えていた。僕は呆気なく負けた。
「ごめん、僕も、好きだよ…だいすきだよ、ごめん」
 Yはその言葉を聞いた途端、花が綻ぶように笑った。僕の目からは涙が流れた。あまりにも間抜けだった。彼女は僕の前髪をすいて、それからめいっぱい抱きしめてくれた。僕より10センチほど背の低い彼女が、僕の背をぺしぺし叩くたびに、彼女が好きだと理解した。
 僕はそれから、Yに会っていない。

◇ ◇ ◇

 ただ僕が、どうしようもないやつだという話だ。僕がこんなに卑屈なのは、誰に優しい顔をされても優しくされても良くしてもらっても信じ切れないのは、僕が僕を大嫌いで仕方ないのは、全部全部彼女のせいだと、そう思いたかっただけなのだ。全部彼女のせいにして、彼女ごと僕の卑屈さを殺し尽くして、もう2度と出てこなくなれば、僕は生きていけると、信じていた。彼女の好意の前に呆気なく揺らぎ、嫌いと言うだけで声を震わせる僕に、そんな勇気があるわけがなかったのに。僕が僕に嘘をつける強さなど、あるわけがなかったのに。
 どうしたらいい?僕はどうしたらいい?いつまで卑屈で醜い自分と一緒にいればいい?どこまで自分を下げれば安心できる?へらへらしてる自分を繕って誰にとっても重要な人物にならないように、いつまで頑張ればいい?あと何度「だいすきだよ」を疑えばいいの?

 親愛なるYへ。僕は君を、君を信じられない僕を殺してしまいたい。気づいたんだ。僕は、他人の好意を信じられないんじゃない。信じられないのは、好きだよと言われるような価値が自分にあるということだ。僕にそんな価値はないんだ。そんなことを思っていないと、苦しくてうまく息ができないんだ。君のせいじゃない、君のせいじゃないよ。僕を好きだと言ってくれたこと、きっと僕は死ぬまで君に感謝するだろう。

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