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習作④-6「橋間④」

 昨夜、別れる前に、橋間が言っていたことを思い出す。
「俺は生きるのが怖いけど、君は死ぬのが怖い。だから俺たち2人とも不幸だろ、それじゃ、生きるのも死ぬのも怖くなくなったら、幸福になれると思うんだ」
 そのときは思わず橋間の顔を見たけれど、彼はいたって真面目な顔をしていた。今自分の言ったことが真理であると言わんばかりだった。    
 私はそんな安直な考え方に不覚にも、なるほど、と思った。世間の幸福な人たちはもしかしたら、死ぬことも生きることも怖くないのかもしれない。うまく想像できない世界だった。

 また、こんなことも言っていた。
「自分がされたらたいそう傷ついて、俺は可哀想だとか、この世は地獄だとか言うのに、顔も知らない誰かに同じことをできる、平気な顔で、そんなやつは死ねばいいとか言うんだ。そのことに、少しも傷ついたりしないんだぜ。どう思う、君は、どう思う」
 そう言い放ったときの彼の目は、遠くを見ていた。言葉に込められた感情は怒りではなくて、たぶん、諦めに似た何かだった気がする。
 私も、私なりの諦観と、同時に希望も込めて、こう返した。
「私はそれが、人間の脆さだと、思う」
 脆いから、人は自分のことしか考えられない。基本的に、他者の感情に敏感であるということは、つらいことなのだ。
 そのとき橋間の目が空の向こうから私の方へ向いた。眼鏡の奥の大きな目を、私もじっと見返した。その視線から何かをつかみ取れると、私は浅はかにも考えていたのだ。

◇ ◇ ◇

 休日の、夏の昼下がりだった。公園のすぐ近くにあった小さなアパートに、私は息を切らして駆け込んだ。ここに住んでいると前に聞いたことがあったのだ。そして橋間は、冗談めかして、よく言っていたのだ。
「俺が死んだ時には君が最初に見つけられるように、部屋の番号を教えておくから」
 その番号の部屋は、鍵が開いていた。中を見た瞬間、和室じゃないんだな、という変な意外感があった。
 小さな玄関から、狭い廊下を進み、奥にあったドアを開ける。そのまま足を踏み入れた8畳のワンルームの窓は大きく、薄いカーテンの向こうにきれいな青空が見える。濃く高く澄んだ青だ。部屋の中ではエアコンの駆動音がかすかに聴こえて、あとは何も聞こえない。機械的な空気の温度がひんやりと頬を撫でた。外は馬鹿みたいに暑かったから、とても心地が良かった。
 部屋の真ん中に置かれたコタツ用の机の上には、文字でびっしりと埋められた四百字詰め原稿用紙が丁寧に揃えて置いてある。紙の左上には穴が開けられていて、紐が通されている。原稿用紙のそばに、私がこの部屋の主に貸した本が置いてあった。本の上にはシンプルなデザインの栞が置いてあって、もう読み終わっていることが窺えた。そして、その横に、薄い水色の付箋が貼ってあって、丁寧な字でメモが残されていた。
『親愛なる友人へ、もし最初に俺を見つけたのが君なら、君にお願いがある。この小説を読んで欲しい。君の感性がとても好きだよ。どうか幸福な人生を。』
 部屋の入り口から左手には箪笥と本棚が置かれていて、本棚には小説がびっしりと詰まっていた。作家と出版社ごとに几帳面に並べられている。昔の作家のものが多かったが、ジャンルの幅はかなり広い。
 右手にはベッドがあった。橋間は、そちら側の壁にもたれるようにして、ベッドの上に座って眠っていた。いつものようにグレーのスウェットを着て、中学生にも見えるくらいの童顔は真っ青に青ざめて、けれどどこかおだやかな表情をしている。エアコンによって動いている空気がかすかに彼の黒い前髪を揺らしている。彼の左手のそばには、錠剤のシートが1枚と、カッターナイフが置かれていた。脆い銀色の刃は、赤く濡れていた。
 時が止まったような感覚と、同時に、受け入れ難い、納得感のようなものが込み上げてくる。
 私は鞄を床に放り投げて、ベッドに乗り上がり、膝立ちになって橋間の肩を掴んだ。その衝撃で彼の体はぐらりと傾げて、私に向かってその細い体がのしかかってきた。
 背中を抱きとめて、細い髪をそっとよけながら頬に触れた。同じ生き物と思えないほどに冷たくなっていた。夢で覚えている温度と、同じだった。
 首筋にふれようと思ったけれど、そのとき初めて、そこに大きく切り裂かれた傷があり、血がたくさん流れ出していることに気がついた。飛び散った血で、壁もシーツも真っ赤に染まっている。私は唐突に夏目漱石の『こころ』に出てくるシーンを思い出した。寝室で友達が死んでいることを、壁の血で確認するシーン。どうして今の今まで気づかなかったんだろう。いや、気づいていたけど、私が見たくなくて見るのを拒んでいただけだったのかもしれない。人間の中にはこんなに赤いものが流れているのかと思って、激しい動悸がした。こぼれ出した血をすくって橋間の首元に押し付けるような動きを何度か繰り返したけれど、乾いた血が私の手を赤くしていくばかりで、やがて意味のないことだと気づいた。
 橋間は私の腕の中でじっとしている。けれど、もう動かないのだろうなということはわかった。
 私は、彼の体をたどたどしく抱きしめた。夢で彼に出会えたから、橋間がもうここにはいないと私はよく知っていた。だってこの体にはもう、色も見えないし、温度もない。でもそれは、死んでるってことじゃない。そうじゃない。橋間はあの寂しい家の、奥の部屋で、いつまでも夏の夕暮れの中にいるんだ。あそこでひとりでいることにしただけなんだ。だから体を置いてったんだ。私にはそれがよくわかった。わかろうとした。それ以外のことをわかりたくなかった。
 息を吸おうとしたとき、私は自分の体が震えていることに気がついた。
 私は彼に聞いた。
「橋間、さみしいことは、つらいことだよ、どうして耐えられるの、どうしてひとりでいっちゃったの……」
 ぴくりとも動かない細い体に必死ですがりついて、私は泣いた。
「おしえて」
 なんて、なんてことだろうか。知っている、わかっている。この人にとって、この世に生きるためのよすがが、書くことにしかないことを。橋間は願いを叶えたのだ。彼のまま、幸福なまま人生を生きるという願いを。
「橋間………」

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