習作④-1「橋間①」

 死ぬことが怖かった。
 中学生くらいの頃、夜にひとりでいるときに、いつか来るのであろう人生の終わりを想像して、途方もない恐怖に幾度となく襲われた。
 私の人生はどう終わるんだろう。病気だろうか、老衰だろうか、苦しむだろうか。いや、そういうのならまだマシだろうな、もしかしたら通りすがりに誰かに殺されてしまうかもしれない。もし私の終わりがそうだと決まっているなら、どうかひとおもいに、長く苦しませずに殺して欲しいとは思う。
 死んだらどうなるんだろうか。体が動かなくなって、息が止まって、手足の感覚がなくなって、心臓が止まって、自分が消えていく感覚に、私は耐えることができるだろうか。その後には、何が待っているんだろうか。それとも、私は私であるとわかるまま、ぽっかりとした暗闇に1人きりにされて、そのまま永遠に放り出されるのだろうか。
 そういうことを考えていると決まって激しい過呼吸に襲われた。当時はそれのせいで不眠にも悩まされていて、家族は心配してくれていた。でも、死ぬのが怖いからと話してみても、相手はピンと来ないみたいで、結局この苦しみを分かち合うことは誰ともできなかった。その孤独も、私にはつらかった。それはそうだ、私は別に病気をしているわけでもなく、深刻な悩みを抱えているわけでもない、ごく普通の人間だった。むしろ幸福な生活を与えられている方であった。
 それでも拭いきれない恐怖はいつまでも消えてはくれなかった。どうしてみんな平気な顔をして生きていられるんだろう。生きているということはいつか死ぬということだ。1人の例外もなく人は死を迎えなくてはならないのに、みんなそのことを知らないみたいに生きているように見えた。
 私だけがおかしいのかもしれないと、思った。
 それから十数年経って、大人になった私は、頻度こそ減ったものの、ときどきは、よく眠れない夜を過ごしている。ただ大人になってよかったと思うのは、仕事とか生活とかのことで、考えなければならないことが増えたから、死ぬことについてというその一点のみに思考を支配されることが減ったということだ。私は心底ほっとした。
 私はおかしくなんかない、大丈夫、この恐怖ときっとうまく付き合える。毎日、そう言い聞かせて生きている。

「やあ、有栖」
 機嫌の良さそうな声に名前を呼ばれて顔を上げると、コンビニ袋を片手にぶら下げた、グレーのスウェット姿の男がこっちを見て笑っていた。日がほとんど落ちかかった夕暮れの中に彼はいた。いかにも部屋着のまま上着だけ引っ掛けて家から出てきましたというような格好の彼は、その童顔のせいで高校生くらいに見える。手入れなどに苦労したことはないであろうとわかる髪質のいい黒髪を見て少し憎らしい気持ちになっていると、彼はおもむろに私の隣の空いているブランコに腰掛けた。
「今日も死ぬことについて考えてた?」
 横のブランコに座って、ぼんやりとそれをゆるやかに揺らしている私に向かって、彼はペットボトルを投げてよこしてきた。
「あっ、うん、まあね、そんなとこ」
 ホットココアか、と飲み物を確認している私の横で男はおもむろにビールの缶を開けた。ひとくち飲んだところで、冷たさに身震いしている。
「橋間、今日は寒いよ」
「わかってるさ」
 私が橋間と呼んだその男は、こっちに向かって笑ってみせてから、またぐいっとビールを飲み込んだ。
「寒い日に冷たいものを飲むのは、豊かである証だろ、俺はそういう贅沢が好きなんだよ」
「よくわかんない、体に良くないよ」
 私もペットボトルを開けてちびちびとココアに口をつけながら、橋間を横目で見た。橋間は大袈裟にため息をついた。
「体にいいとか悪いとかいうことはね、大した問題じゃない、大切なのは、今気分がいいかどうか、それだけ。将来のために健康を貯金して何になるのさ、俺はあと5分後にだって死ぬかもしれないんだぜ」
 死ぬという言葉の中に見えたリアルさに怯えた自分を、私は自分の中に見つけて、咄嗟にそれを押し込めようとペットボトルを握りしめた。じわりと熱が伝わる。
「橋間って子どもみたいなこと言うよね、ほんとにそんなの飲める年齢なわけ?」
 足元の砂を私の足が適当にかき回すのを見ていた私は、そのとき初めてきちんと顔を彼に向けた。目が合った。この男は不思議な目をしていた。子どものように無邪気に澄んでいるのに、幽栖の隠者のように老成したものも感じる。この世界のことを隅々まで見ていたいけれど、この世界の中にいたいわけじゃない、みたいな。そういうわがままに似た何かをその目の中に感じるのだ。
「有栖、今日は最後の小説をついに書き始めたよ、今すごくいい感じなんだ、本当に」
 酒に酔っているのかどうかわからないけれど、それに似た雰囲気の機嫌の良さで、橋間はそう言った。
「ほんとに最後なの?」
「最後さ、絶対に最後だ、俺はもうこれ以上は書けない」
「そんなことがどうしてわかるの」
「わかるさ、自分のことだからね」
 橋間は、これから死ぬことについてを話すけどいい?と私に確かめた。夜に満たされていく公園で、夜が来ることや死ぬことについて考えるのは怖かったけれど、私は彼の話に興味があったから、やや躊躇ったのちにちいさく頷いた。それを確認すると橋間は喋り始めた。
「作家になると決めた日に、俺は早く死ぬだろうと知ったんだ。だいいちこんな仕事、せいぜい10年もつかどうか。わかる?有栖、書くということはね、ろうそくをぎりぎりまで燃やし尽くすことに似てる。書き終えたとき、途方もない疲労と満足感がいっぺんに押し寄せてくる。机の上にへばって、もうこんなものは2度と書けないだろうって思うんだ。そして、作家になってしまったからには、書けない自分に存在価値はない。それを全部、それでいいと思って俺は作家になったんだ」
 橋間はなかなか重たい感性の持ち主なのだ。私の心がその重さでぐらぐらと揺れる。
「なんで、なんでさあ、書くことじゃなきゃダメなの」
 私は必死になって、それだけ返した。橋間は缶ビールを足元に置いて、地面を思い切り蹴ってブランコを漕ぎ始めた。
「ダメさあ、書くことじゃなきゃ、だって他にできることないし」
 前後に揺れる橋間の声はすごく明るくて、私ばかりが陰鬱とした気持ちになった。
「別に、何かできなくたっていいじゃん、何かできなくちゃ、生きていちゃいけないの?」
 夜風に橋間の服がはためくのを見つめながら私は自分の声がみっともなく震えるのを聞いた。視界がぐらぐらと揺れているのも感じた。私が目元を擦っていると、橋間がスニーカーの底を擦らせてブランコを止める音が聞こえた。
「違うよ、そうじゃない、君ってば、死ぬことになると途端に物事を重たく考えてしまうんだから」
 お前が言うなと私が心の中で返していると、橋間は笑いながらまたビールを呷った。
「あのね、何もできなくたってもちろん生きていていいのさ、いいかい、生きていちゃいけないなんてことはありえないことだ。そんなことを決められる存在はどこにもいないよ」
 私もココアに口をつけて少し息を整えた。
「俺が言っているのは、俺がどうしたって書くことしかできない人間で、けれど俺がそれを心から望んでいて、そして、ずっと昔から生きることが怖いし、実際、長く生きられないだろうと思う、ということだよ」
「そんなのわかんないじゃん、いつ死ぬかなんて、人間にはわかんないよ」
「いいや、わかるよ、これは予感じゃない、確信だ。書くことを選んだ以上、俺はそう長くはもたない。もうすぐ書き始めてから10年経つんだ、終わりが見えている」
 橋間はそこで言葉を区切った。私が泣いていたからだ。
「有栖、君のその優しくて繊細なところがとても好きだよ、こんな話ばかりする友人が君の横にいることを申し訳なく思う」
 苦笑いしている橋間の方へ私はブランコごと体を寄せて、その肩を思いっきり引っ叩いた。いてっと悲鳴が上がった。
「……まったく、有栖は本当に優しいよね」
 橋間は肩をさすりながら、それでも彼の考えていることが間違っているとは微塵も思っていないような顔をしていた。いつもこんな調子なのだ。橋間は。
「…人生を終わらせるために作家になったの」
「違うよ、そんなはっきりしたものじゃない、終わるという確信はおまけみたいなものだ、書きたい気持ちがまずここにあって、それを決めたら、人生が早めに終わることに気づいたってだけ」
 全然わかんないと返して私は砂を蹴飛ばした。橋間は私を労るように目を細めて、それから朗らかに笑っていた。
「これが完成したら、俺はきっとすぐに死ぬだろう」
 それは橋間の口癖だった。彼は会うたびに必ずその文句を口にした。この小説が完成したら俺は死ぬ、と。私を見て、心から幸福そうにそう言うのだ。目を細めて、喜びと期待で口元を綻ばせて、それはそれは、写真映えしそうなほどいい笑顔だった。口癖と言っても私が橋間に出会ってからせいぜい1ヶ月ほどしか経っていなかったけれど、私はそれを聞くたびに、この男は私とは違う人間なのだと思い知って、寂しくなった。死は恐ろしく、何か大きな化け物のように感じている私には、自分の死のタイミングをはっきり口にできる橋間のことがわからなかった。私はそういう感情を押し隠すのがあまり上手くないので全部顔に出ていたと思うけれど、その度に橋間は、まるで私の心の揺れ動きをおさえようとでもするかのように、ブランコをつかんでいる私の手を上から握った。その感触と温度を、今でも覚えている。
「君が気にすることなんかなにひとつないんだよ、有栖」
 橋間は最後に必ずそう言っていた。

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