習作④-2「橋間②」

 橋間に出会ったのは、私が仕事で手ひどく失敗した日のことだった。帰り道はめそめそしていたけれど、だんだんやけくそになって、コンビニに突入してお酒を買い込み、その足で公園に向かった。
 ベンチよりブランコの方がきれいだったのでブランコに座った。そのまま黙々とビールを喉に流しこんでいるとだんだん気が大きくなってきて、私はおもむろに靴を脱ぎ、靴下も脱ぎ、ブランコを漕ぎ始めた。ブランコに乗ったのは久しぶりだったのだけど、あれほど必死に漕いでいたのはあのとききりだろう。気が大きくなるに任せて高く高くブランコを漕いで、そのままどこかへ飛んでいけてしまえたらいいのにと思っていた。夜風を切り、ふわりと浮かんでいくような感覚が愛しかった。
 傍目から見たら、夜の公園にて裸足になって上機嫌でブランコを漕ぐやばい女でしかなかったのだが。

「やあ、随分高くまで漕いでるね、飛べそうじゃん」

 ご機嫌だった私は、すぐそばに人が来ていたことに全く気づかなかった。この公園は夜になると人通りが全くないから、まさか他人に見られているとは思わなかったのだ。顔に冷たい水を引っ掛けられたみたいに酔いが覚めた。裸足だったので地面に足を擦らせてブランコを止めることもできず、呆然としたまま前後に揺れ動いている私はさぞかし間抜けだったことだろう。

 ブランコの周りに設置された柵につかまってこっちを見ていたのは、近くの高校のジャージを着た童顔の男だった。身長は私より少し高いくらいだったから、170と少しだろうか。前髪は目にかかるかかからないかという長さで、髪は全体的にところどころ跳ねてはいるものの、髪質は良さそうだった。右手に安物の腕時計をしていて、縁の細い眼鏡をかけていた。
 そのとき瞬時に私の脳内に駆け巡ったのは「夜」「不審者」「未成年」「逮捕」などという文字であった。

「つ、通報しないで……」

 私が橋間に向けて初めて投げたのは、そんな情けない声だった。
「ふふっ、うける、通報なんかしないよ」
 彼は爆笑しそうになるのを堪えていたのか、口に手の甲を当ててひとしきり震えていた。それが収まると、ごく自然な動作で隣の空いているブランコに腰掛けた。
「俺、高校生じゃないよ」
 その言葉に、心底ほっとしたのを覚えている。
「でも、ブランコを漕いでるお嬢さんが大変面白かったから、俺は誰かにさっき見たものについて喋ってしまうかもしれないな……」
 私はぎょっとした。
「は?!やめて!!!てかお嬢さんて、君、私より年上なの……?」
「深夜にブランコを漕いでるような女性はみんなお嬢さんだよ」
「うわ……」
 確かに高校生でないということはわかった。こんなぞわぞわする言葉の使い方、日本の高校生にできるものか(私は若者たちに夢を見ているところがある)。

「お嬢さん、口止め料に名前を教えてよ」
 私がいそいそと靴下を履いていると、彼がこちらの様子を見つめながらそんなことを言った。なんだか着替えを見られているような居心地の悪さを感じた。
「宮島……」
「下の名前は?」
「なんでそこまで言わなきゃいけないの」
「そりゃ下の名前の方が大事に決まってるからさ」
 肩をすくめる動きも白々しく、なんて胡散臭い男につかまってしまったのだろうかと、私はその日の運のなさを恨んだ。
「……有栖、あるか無しかの有る、に、幽栖の栖」
 幽栖のところで、彼はたいそう目を輝かせた。あまり明るい言葉ではないのだけど、どうやら好きな言葉らしい。
「いい名前だね、君」
 有栖というのは、居場所がある、という意味で名付けられた名前だということは知っていたけど、個人的には洒落すぎていると感じていた。
「ベタベタな乙女ゲーの高飛車令嬢役みたいで、私はあんまり好きじゃない」
「意味なんていいんだよ、呼んだ時にうれしくなるような綺麗な響きじゃないか、有栖」
 私は小っ恥ずかしい台詞にぎくりとして、おもむろに髪をいじりつつ目を背けた。

「……あんたの名前は?」
 先ほどから彼のジャージに名前が刺繍されていないか探してみたのだけれど、綺麗に糸が抜かれていてわからなかった。
「うーん」
「……」
 彼は何故か、逡巡した。こいつ、偽名でも使う気なのか。
「あっ!橋間、はしま、ね。橋の間って書く」
 ぽんっと手を叩きながら、彼はそう言った。自分の名前を言うのにわざわざ思い出す必要などないので、橋間という名前は、恐らく偽名であろうことがよくわかった。私は念のため聞いてみた。
「……下の名前は?」
「さあね」
 橋間はとぼけた。視線が明後日の方向を向いている。私は絶句した。さっき下の名前が大事だとか言っていたのはどの口か。
「言いたくないんだよね、橋間までが限界なの、これでも結構頑張ってるから許してよ」
「あんた、結構失礼なこと言ってるけど、自覚してる?」
 じっとりとした私の視線に、橋間は腹立たしいほど爽やかに笑ってみせた。
「よろしくね、有栖」

 よく回る口は憎らしいけれど、橋間の笑顔はあどけなく、穏やかだった。差し出された手を、私はしぶしぶ掴んだ。恥ずかしいところを見られたお代だと思うしかない。
 橋間の手は、男にしては少し細いけれど、ちゃんと男の手だった。そして、ひんやりとしていてかさついていた。爪の長さがところどころ不揃いで、明らかに爪切り以外の方法で短くなっている指がある。どことなくメンタルの不安定さを感じさせる手だった。学生時代の友人がよく言っていた。手にはその人のことが割といろいろあらわれるって。あとは靴とか服装とか、髪型とか。
 橋間は明らかに自分の外見というものに頓着しない人間だった。それは興味がないからというよりもむしろ、意図して無頓着さを表現しているように思えた。これは、私の勘みたいなものでしかないけれども。

「ここにはよく来るの?」
「うん、ほとんど毎日、雨じゃなければ」
「怖くないの」
 そう口走ったすぐあとに、自分のことを開示しすぎたな、という予感がした。案の定、橋間は怪訝な顔をすることはなく、真面目な顔つきになった。
「暗いのが?それとも、1人で外にいること?」
「……どっちも」
「俺は実は、どっちも好きなんだ」
 橋間は笑って、それからジャージのチャックを少しいじっていた。この人には、ものを考えているときに手が何かをいじる癖があるらしかった。
「有栖、もしかしてさ、君、夜が好きじゃないのかい」
 ぎくりとした。
「そんで、もしかしてのもしかしてだけど、死ぬのが怖いのかな、夜ってさ、自他境界が曖昧になる感じがして、死に近い時間帯というイメージがあるから」
 模範解答である。私は橋間に対する認識を改め、隠そうとするのはやめようと決意した。
「私は、おかしいのかな、死ぬなんてさ、当たり前のことを怖いだなんて……」
「変わってるね」
 橋間も繕うことなくそう言った。気を遣われていないとわかるのはかえって気が楽だった。
「でも別に、特別おかしいわけじゃないよ」
 私は思わず、橋間の顔を見た。彼も私を見ていた。
「おかしくない人間なんて、この世にはいない、みんなちょっとずつおかしいとこを持ってるものだよ」
 彼はけろりと、そう言ってのけた。体から緊張がふっと抜けるのを感じた。ずっと肩が強張っていたことにたった今気がついて、そっと元の位置におりていくような感覚だった。私は少しだけ、踏み込んでみることにした。

「橋間の手も、そういうこと?」
「手?」
「爪が欠けてる、指は綺麗なのに」
 橋間は自分の手を広げて指先を眺め、たった今爪のことに気づいたような顔をした。
「ああ……うーん、そうだな、あんまり気にしたことなかったよ」
「手には性格が出るって言われるけど、橋間は、不安になりやすいの?」
 言いながら、私も自分の手を出して眺めてみた。そろそろ長くなってきた頃だったので、ちょうどいいと思った。
 親指を出して爪の方を上向かせ、私は軽く爪に噛み付く。橋間は流石に驚いたようだった。
「なっ、にしてるのさ」
「私は不安になると、よくこうやって爪を噛んでたから、あんたのも、噛んで欠けた感じがするってわかるの」
 橋間はしばらく瞬きをした。右手でジャージのチャックをかまいながら、左手の指先をじっと見つめている。
「……本当だ、気づかなかった」
 そして彼も私に倣って親指の爪を噛んだ。
「自分の癖なのに、全然知らなかったな」
 橋間は感心しているようだった。そのまま爪をがじがじと噛んでいる。私は、爪が傷むからやめなと言ってそれを止めた。

「有栖は細かいところによく気づく人間なんだね、いいなあ……俺は全然わからないから」
「あんたも私のことにすぐ気づいたじゃん」
「俺のは違うんだよ、気づいたらそのまま言ってしまう、言葉を選べない、自分の気づきが相手にとって嫌なことかもしれないというところまで、どうしても思考が及ばない」
 橋間は人差し指の腹で親指の爪を擦りながら、ぽつぽつと話した。
「俺は作家なんだ、だから、自分の想像力が商売道具、逆に言うと、基本、それしかない」
「何か悪いことでもあるの?」
「悪いさ、空想の世界でどれだけ思考を巡らせたって、リアルの人間、世界に対しては少しもうまく働きかけることができない」
 私はため息をついた。
「何言ってんの、そんなの当たり前じゃん」
 橋間は私の言葉にまたぱちぱちと瞬きをした。この人はもしかしたら想像よりずっと、世間知らずなのかもしれないと私は思った。
「他人に正しく影響を及ぼせるなんて、そんなこと簡単にできないんだよ、橋間、私ももちろんそう」
 爪を擦る手が止まって、橋間は少しだけ俯いていた。
「そうか……そうなのか、それなら、とても助かる」
 眼鏡の奥の目が、ひどく安堵していたのが、とても印象に残った。

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