習作①「フレデリック・ダネイと多々野さんの話」
じっと座ってるのは苦手だし、先生は大して偉くもないのに偉そうにしていて不愉快だし、みんなは休み時間になるとサッカーとか野球とかしかしないし、宿題はめんどくさいし、朝起きるの苦手だし、ご飯も早く食べられないし、要するに、僕は学校生活を送るのに全く適していない人間なのであった。
みんな頑張ってるからお前も頑張れよ、甘ったれんなと言われても、そんな苦しい思いをしてまで学校に通わなくても勉強はできるし、いいじゃないか。学校生活を頑張ることで何か僕にメリットがあるのなら、教えてほしい。
というわけで、僕は今日も学校に行く道から逸れて、行きつけの本屋さんに向かう。
おじさんが1人でやっているごぢんまりした店で、僕が制服着て平日のこんな時間からうろうろしててももうお馴染みのことなので特になにも言われない。
新潮社のコーナーをうろうろしてたら、変な人がいた。
ばかでかいリュックに、白衣に、眼鏡に、とてもいい笑顔で、スクワットをしながら本を立ち読みしていた。
僕は何も見なかったことにしてその場から離れようとした。
しかし、変な人は目ざとく僕を見つけたようだった。
「やあこんにちは、いや、おはようの時間かなあ?まあどっちでもいいや!」
変な人は本を棚に戻してスクワットをやめると、こちらを見た。僕の背筋は強張った。なぜか気恥ずかしい気持ちもした。なぜだ。ここで恥ずかしくなるべきなのは僕ではなくこの変な人のはずだ。
「やあやあ中学生かい?こんな時間から本屋さんとはなかなか尖ってる人生送ってるじゃないか、ところで村上春樹の新刊を見ていたみたいだけどそれどう?おもしろい?」
いちどにたくさんのことを言ってくる人間というのはなかなかうっとうしいものだ。僕はちらと視線だけ向けて、返事をしなかった。
すると変な人はにこやかに親指を立てた。意味がわからなかった。
「俺は多々野というんだ、この街に来るのは初めてなんだけどね、」
多々野さんはスキップをしながら近づいてきた。
僕はぎょっとして持っていた本を取り落とした。
「あっごめんねえ、びっくりした?まあ気分と一緒に手足が動いてしまうのは、俺の人生の一部だから許してよ」
多々野さんはにこにこしていた。
「ねえねえ君、なんていうの?お名前」
「知らない人には名乗れません」
僕は身構えた。
「よーしじゃあ今日から君はスクワットくんだ!!」
「いや意味わかんねえよ」
「え、かっこいいじゃん、スクワット君」
僕は多々野さんに思わず突っ込んでしまった。
スクワット君はあんまりだ。センスがない。せめて「ファキナウェイ」とかがいい。
スクワットが好きなのは僕ではなく多々野さんであり、僕はスクワットには微塵も興味がないのだ。
僕は並んでいる本に目をやった。
某国民的小学生探偵漫画の冒頭を思い出し、しばらく考え、自分の機転の効かなさに絶望して、観念して口を開いた。
「強いて名乗るならば、フレデリック・ダネイです、強いて名乗るならば」
多々野さんはそれを聞いて、
「ふふっ……ははあーん、なるほど!!エラリー君か!!」
と、腹立たしいくらい爽やかに笑った。合ってるけど合ってない。
「ところでエラリー君、君はハッター家でのドルリー・レーンの行為をどう思う?」
多々野さんはすんっと笑顔を引っ込めて聞いてきた。
ころころ変わるテンションに戸惑いながら、僕は考えた。
「ゴキブリ退治みたいだなと思います」
多々野さんは僕の言葉を聞いてしばらく静止した。
まばたきもせず、僕をじっと見つめてなにか考えているようだった。
それから唐突にふぅとため息をついた。
「それはそれは、言い得て妙だねえ」
そしてうんうんと頷く。
「ちなみに俺は、精肉かなと思う」
僕は多々野さんの顔を見た。
そして目を見た。よく見たら少しだけ色素が薄かった。
彼の言葉と、その目の色が連れてきたひんやりとした温度で胸がドキドキした。
多々野さんは急にふにゃっと顔を崩した。
「ところで俺さあ、行きたいところがあるんだよね」
多々野さんはおもむろに白衣のポケットを漁り、紙切れを取り出し、僕に向かって差し出した。紙には隣町の住所が書いてあった。
「俺この街初めてだからさ、行き方わからなくてさあ」
多々野さんはどこからカメラを向けても絵になりそうなくらいたのしそうな笑顔を浮かべていた。
「中学生でエラリー・クイーンなんか読んでるキレ者なら、道案内くらい朝飯前だよね!!おねがいっ!」
僕は迷った。
「えーーーーーー.....」
どうせ今日は学校に行く気なんかないし、お父さんはどうせ日付が変わる時間を過ぎなきゃ帰ってこない。
でも知らない人についてっちゃいけないということは生真面目に守っていた僕であった。
僕は不良ではないのだ、夜が危ないことも知っている。
「んーーーむ、なかなか難航しているようだねえエラリー君、君の思考は」
多々野さんがふわふわと左右に首を傾けながら言った。
「ふむむー、ならばどうだろう、労働には対価が必要だろう、ということで、俺を見事にここまで連れてってくれたならば、君にお礼をしようじゃないか、エラリー君」
「具体的にはなにをもらえるんでしょうか」
僕は訝しんで答えた。
「交通費の倍額!」
思ってたより、なんというか、なんというか。ああ、こういうときはなんという言葉が適切だろうか。
「別に、君が俗物に見えるとか、そういうわけじゃないぞう」
僕の顔を見て多々野さんは僕の知りたかった言葉を言った。
「世の中、お金は大事だよ?どんなにまっすぐ立っていたって、汚い格好をして、地位もないならば、誰も言うことなんか聞いてくれやしないのさ、みんな、綺麗な言葉を言うけれど」
それは多々野さん自身の言葉というより、僕の内面をまるで投影したかのような言葉で、僕はさっくりと、ぐっさりと、その言葉に刺された。
多々野さんはにこにこと笑ったまま僕を見て立っていた。
僕は、この人に道案内をすることに決めた。
「文庫本一冊くらいは買えそうですね。」
多々野さんはぱっと顔を輝かせた。
この人の表情のバリエーションにまた驚く。
僕は踵を返して、本屋を出た。多々野さんもふわふわと特徴的な歩き方をしながらついてきた。
店を出ると、ひぐらしの鳴き声が聞こえた。
しばらく多々野さんが振ってくるどうでもいいようでどうでもよくないような不思議な話題に答えながら、バス停まで歩いた。
バスが来て、整理券を取って、こういうのもいちいち慣れていない多々野さんにいろいろ教えながら、乗り込む。
ガラ空きのバスの1番後ろの5人座れるあの席に、1人分の隙間を開けて僕と多々野さんは座った。
陽光は眩しく、暑く、でも時折吹くぞっとするような冷たい風が通っていく。
今は9月、秋がぶしつけな足音を立てながら土足で踏み込んでくる。
素敵で気楽な僕の世界に。
要するに今日は、9月の1日。
多々野さんはふわふわ笑っていた。あんまりじっとしているのが得意じゃない人なのはなんとなく感じていた。足を組んで、踵を支点にして足を左右に一定のリズムで振っている。
「凶器をマンドリンに選んだのはなぜだったかな、ねえエラリー君」
僕はその問いにいい答えを返せなかった。
「Yの悲劇の真犯人バレにつながるんでやめたってください」
「え、なにどしたの、急に来たねメタ発言」
「未読の推理小説のネタバレされることほど殺意が沸くことはないのです」
「うはは、それはとってもよくわかるぜエラリー君や」
多々野さんはげらげら楽しそうに笑った。
バスに揺られて、陽光も揺れていた。僕はものすごく眠いなとふと感じた。
「多々野さんは、真犯人に家畜ほどの価値があると思ってるんですか」
多々野さんの顔に木漏れ日がぱらぱらと差した。
そして多々野さんは僕をまっすぐに見つめてきた。
「俺は、命があるべき器に入れられている方が落ち着く、小心者だからね、価値なんて、そんな難しい話はわからんのよ」
にかにかっと、多々野さんは笑った。
なるほど、と僕は思った。
命に価値があるかどうかなんて、そんな大した話じゃないのかもしれないなと、多々野さんの顔を見ていると思えてきた。
僕はあくびをした。
「おやおやあ、ねむそうだねえ、バスはまだ長いみたいだし、すこしねむってもいいと思うな」
多々野さんはそういうと、僕から視線を外して、いちばんはじの席にずれて、窓に寄りかかった
僕も多々野さんにならって、こちら側の窓にもたれかかった
ふわふわと生ぬるい闇が、間も無く訪れた
変な話だろう。
実に変な話だ。
多々野さんは変な人だ。
人なんかみんな歪んでいて矛盾だらけだけれど、多々野さんはそれを受け入れて素直に言葉にできるみたいだった。
僕はできない。僕は僕を受け入れられないからだ。
何にも楽しくない話をするけれど、僕は母親は僕が小さい頃に死んだ。父親と2人ぐらしで、きょうだいはいない。親戚の中では孤立しているらしい。
そして僕、僕は、朝起きられない。なぜなら夜寝ないからだ。光が降り注いでいる時間ずっとねむいのは僕にとっては日常なのだ。僕は暗い中でひっそりとひとりで本を読んだりゲームをしたりするのが好きだ。ひとりだけの、素敵で気楽な時間。朝が来たら制服に着替えて、荷物を準備して家を出るけど、僕は学校に居場所なんかないから、当然行きたくなんかない。冒頭ではかっこつけたけど、僕が学校を嫌っているというより、僕が学校に嫌われている。
遅刻ばっかりして宿題も全然出さなければ先生には簡単に嫌われる。話しかけられてもぶっきらぼうにしか返さなければ友達は簡単にできなくなる。頑張ればできるかもしれない。でも僕は本当に頑張れない。毎日、その場に立つのもやっとなのに。毎日、呼吸をするだけでやっとなのに。毎日、ご飯を食べることもお風呂に入ることも、びくびくしながらじゃないとできない。これ以上、僕は頑張れないのだ。
ご飯を食べようとすると吐きそうになったことを思い出して食べられなくなる。お風呂に入ると、自分の体がどんどん望まない方向に変わっていっているのを目の当たりにしなきゃいけないから、怖くて目を開けられなくなる。
みんなはこんなこと普通じゃないらしい、僕にとっては全部普通のことなのになあ。
父さんが心配しないように、1学期はちゃんと髪を伸ばして毎日きちんと結んで、スカートを履いて、学校に通おうとしていたんだけど、2週間くらい頑張ってストレスで倒れて結局また行けなくなった。僕はめちゃくちゃに髪を切って、スカートも捨てたけれど、父さんは僕を見捨てず、病院ではなく美容院に連れてってくれて、綺麗に髪を整えてもらえるようにしてくれた。僕の学校では女子の学ラン登校は認められていない。だから僕は学校へ行けないのだ。そもそも、女の子たちと一緒のトイレなんか使えないし、着替えもできないのだから、お話にならないのだ。
今日だって別に、学校へ行く気なんかさらさらなかったのだ。僕の世界を縛るいばらを踏みしめて血を流しながら地獄に行くなんて勇気は僕にはないのだ。
遠くへ行きたいなあ
ひとりでいたいなあ
ずっと夜だったらいいのになあ
僕は、僕は、ただ僕であることを、誰かに許してもらわないと生きていけないのかなあ
僕はあまり自分のことでは泣かなかったけれど、物語に触れてよく泣いた。
Yの悲劇もそうだ。ゴキブリ退治した人の心を思って、退治されたゴキブリの心を思って。
ぱっと、光と温もりが顔に当たって僕は目を覚ました。
多々野さんが気づいて笑った。
「よく寝てたねえエラリー君、実によい寝顔だったとも」
僕の体には寝起きの気だるさが強く残っていたから、反応が遅れた。ぼんやりと彼の顔を見てしまった。
「もうすぐ着くよ、いやいや、ほんとうに今日はよかったなあ」
多々野さんは足をぶらぶらさせていた。
やがてバスは着いて、目的地まで少し歩くだけになった。僕と多々野さんは連れ立っててくてく歩いた。多々野さんはふわふわ歩いていた。
知らない家の前に着いて、だんだん目の覚めてきていた僕は、動悸がするのを感じていた。少し呼吸が浅くなっている。すると多々野さんは「失礼」と言っていきなり僕の手を握った。
家のチャイムを押して出てきた人と言葉を交わし、何か包みのようなものを渡し、上がっていけという誘いを丁寧に断って、多々野さんはそのまま僕の手を引いて歩いた。
僕たちはそのまま来た道を帰って、またバスに乗ったとき、多々野さんは約束通り報酬をくれた。なんとお金とは別に、僕が欲しかった本まで買ってくれた。
そして、出会った本屋で僕は多々野さんと別れた。
始終ご機嫌なまま、馬鹿でかいリュックをしょいなおして、ふわふわと、僕とは反対方向へと歩き去って行った。
そして僕は、いつものように家に戻って、できるだけ部屋を暗くしてから眠りについた
時間は午後2時くらいだった。
僕は真夜中に目を覚ました。
もったりとして、優しくてひんやりした夜が僕の世界の全てを包んでいた。
僕は回想した。
いつものように学校へ行かず本屋に行った僕は、変な人に出会って、変な人と一緒にバスに乗って隣町まで行って、変な人と別れた
そして帰ってきて寝た。
僕はそこでだるくなって喉の渇きを感じたので、ひとまず部屋を出て台所へ向かった。
暑さを感じたので梅ジュースを飲むことにした。
ご近所さんがよく梅を持ってきてくれて、それを氷砂糖に漬けてシロップをつくる。それを薄めて飲む。
これが甘酸っぱくて僕はとても好きなのだ
コップに金色に近い黄色のシロップを注ぎ、水を慎重に入れる
窓から差し込む月の光がコップをひそやかに輝かせるさまを見ているのも僕はすきだ。
かき混ぜて、ひとくちのむと、甘酸っぱくて体にじんわりしみわたるような、ほっとするような味がした。
こうして好きなものを飲んで、ひとりで美しいものを感じていられる時間が、僕にとって大切な心安らぐ時間なのだ。
それから僕は部屋に戻って、朝まで本を読んだ。
朝が来た。
日が昇り、光が無遠慮に降り注ぐ時間。
誰の頭の上にも平らに等しく。
階下に降りると、卓に食事が用意されていて、お父さんはもう出かけてしまったようだった。
綺麗な字で「おはようございます、あたためてから食べてください」と書き置きがしてあった。
そばにはラップのかかったオムライスのお皿が置いてあって、近くに添えるように本が置いてあった。
父さんは大学教員を務めていて、書斎には山のように本が置いてある。
僕が本好きなのは彼の影響に違いない。
彼はこうして毎朝、僕に本をそっと差し出して出かけていくのだ。
いろいろ面倒なたちの僕を放っておいて、僕が寂しい思いをしているんじゃないかと思われるかもしれないけれど、父さんがこうして本を置いてくれることで、僕は不思議と、いつも彼に寄り添ってもらえているような気がするから、寂しくはない。
今日は中国人作家の小説だ。
山の郵便配達という、優しい色の表紙である。
これが、僕の世界の全て。
小さな部屋と、積み上がった本と、ひっそりとうつくしいものたち。臆病な自分自身。
身支度を整える。
これは僕が僕であることを続けるためのただの習慣である。
スキニージーンズを履き、ゆったりとした白いパーカーを着て、黒いショルダーバックとキャップを手に取ったところで、携帯が鳴った。
メールが来たようだった。
どうやら担任の教師かららしかった。
気が向いたら顔見せてくださいとか、宿題とか色々書いてあった。
気が弱そうな女性の先生の顔を思い浮かべて、僕はメールをそっと閉じた。
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