習作④-4『幽栖の夢』

『絶望とは憎むべき感情だろうかというのが、長らく私にとって最大の考察テーマだった。息苦しく、気がふれそうなほど苦しみに喘ぐ夜に、それでもその苦しみを愛せるかということが、この人生の行く先を決めると信じていた。』
 手に取った本の冒頭には、そんなことが書いてあった。
「苦しみを愛せるか……」
 難しいことを言っているなと思った。苦しみを愛せればそれはもう苦しみではないのではないか。
 僕は、発作で絶望に満たされた夜を思った。僕が僕であることを最も憎む時間のひとつだった。
 この言葉にならない苦しさをわかる人間が、この世界にどれだけいるというのだろう。いや、もうわかってほしいとは僕は思っていない。わからないのに踏み荒らしてくる連中ばかりなのをよく知っているからだ。そんなことをするくらいなら、僕を1人にして、放っておいて。
 それしか望まないから、僕からもう何も奪わないでくれ。

◇ ◇ ◇

 駅前の本屋にて僕が手に取った本は、しっかりとした装丁の単行本で、紺色のカバーに金色の文字で「幽栖の夢」と刻まれている。上品な雰囲気のかっこいい表紙だ。ページもぎっしりある。
 この本は、本好きの書店員によって綺麗に整理された新刊コーナーの目立つところに積んであった。
 近所の本屋には一冊もなかったものだから、正直ここにも置いてなかったらどうしようかと、内心で心配していたのだ。

「みーくん、欲しいやつあった?」
 月さんが横からひょいと僕の手元を覗き込んできた。本をうっかり落とさないように大事に持ちながら僕は答えた。
「うん、あったよ」
「そう、それはよかった」
 月さんは淡く笑った。きっと僕はうれしそうな顔をしているんだろうなとわかった。
 本棚にぎっしり本が詰め込まれている通路を背に立っている彼は、その光景によく似合っていた。なんだか、図書館にいるお洒落で知的な大学生みたいで。年齢的にも彼はそのくらいの年だし、どんな背景にもすんなり馴染んで1枚の絵になってしまうこの人は、やっぱり本当にすごい。
「どんな本?」
と、彼が覗き込んでくるものだから、僕は本を掲げて表紙を見せた。
「なになに、『ゆう……』ゆうれい?」
「ゆうせい、ね」
「どういう意味?」
問われて僕は、スマホの検索画面に幽栖と打ち込む。
「『俗世間から離れてひっそりと暮らすこと。また、その住居。』だって」
「隠居みたいな感じ?」
 僕は山奥に住む老人を思い浮かべた。古びた小さな家、本がぎっしりの書斎。手入れの行き届いた庭。そういうところで、ひとりで生きている人を想像した。
「たぶん…」
「怖い話じゃない?」
 月さんはややしかめ面をした。僕から本を受け取ってぱらぱらしている。彼の好みはもっぱら童話みたいな優しくハッピーエンドになる話だった。一方僕は、人間の暗い部分を描いた作品にばかり惹かれる人間だった。僕は自分のそういうところが、前からあまり好きではなかった。

 でも、橋本先生の作品は、いつだって人間の暗がりを肯定していた。僕は、夜を愛することを許された気がして、先生と先生の作品に感謝して、愛した。
「字が細かい……」
 中身を見て眉を寄せた月さんにちょっと笑ってから、僕は続けた。
「僕は橋本瑠衣先生のファンなんだ、去年初めて代表作を読んだんだけど、すごく、なんていうか、しっくりきたんだ」
 とても好きなのにうまく言葉にできないのがもどかしかったけれど、月さんは僕の顔をじっと見て、それから頷いた。
「そっか、みーくんにとってしっくりくるっていうのがよかったんだね」
「……うん、そう、そうなんだ」

 月さんは著者近影を探しているようだった。
「橋本瑠衣……男の人?生年月日もわからないし、好きなコンビニのお酒とスイーツしか書いてない」
「あー、先生はそういう人なんだよね、自分の経歴みたいなのを書かれるのをすごく嫌がってるみたいで、あとがきもないんだよ」
「えっ、あとがきがない本なんてあるんだ」
 僕は月さんから本を受け取ると、中身をめくった。
「先生は最初の作品が結構すごい賞をとって作家になったんだけど、その賞の授賞式に現れないどころかコメントさえ出さなかったんだって、編集部とのやりとりもメールか手紙で、絶対に姿を現さないらしい」
「幽栖、してるのかもね」
 僕は月さんの言葉にハッとした。俗世間から離れてひとりで小説を書いている人。そうしたら、孤独も苦しみも愛せるようになるんだろうか?
「先生の文章は、とっても生真面目な感じがする、柔らかく流れるっていうよりも、細かな部品をたくさん組み合わせるようなかっちりした感じ」
「なるほど?」
 月さんは僕の言葉を受けて、虚空をじっと見つめた。普段日に当たらないせいで色の白い横顔が素直に「わからん」という表情をしていて僕は笑いそうになった。
「ああ、僕の感覚の話だから、あんまり気にしなくていいよ」
「みーくんはそういうところが好きなの?」
 月さんがこっちを見る。わからなくてもめげずに僕の好きなものの話を受け止めようとしてくれる彼を、改めてとても好きだと思った。
「そう」
 いろんなことがうまくいっている。いい休日だなと僕は思った。

◇ ◇ ◇

 月さんが雑誌を見にいくと言うので、僕は彼と別れて文庫本の通路に入った。「幽栖の夢」を片手にうろうろしてみる。両脇には、ぎっしりと本が詰められた棚がずらりと並んでいて、僕は幸せな気持ちになった。本がたくさんある場所はいいところだ。とても心安らぐから。本というものにはそれを書いた人間の存在が常にそばにある。彼ら彼女らがここにいなくても、もうこの世にさえいなくても、たしかに本のそばに気配がある。だから、寂しくない。1人でいても大丈夫でいられる。だから本がたくさんある場所が好きなんだ。

 もしかしたら、昼間も悪くないかもしれない。とりとめもなく、そんなことを思った。本屋さんも図書館も夜には開いていないし、たまになら、ここに来るためなら、昼に起きていてもいいかもしれない。

 僕がわずかに、この世界に足を向けたとき、ふわりと、めまいがするような甘い匂いがした。同時に、首筋に添えられた手のひんやりした温度がフラッシュバックする。
 心臓が強く、冷たく鼓動を打った。

 視線の先に、小柄な女性がいた。知っている人だった。僕はお守りのように本を抱き抱えて、キャップを目深に下げる。
 その人は、推理小説の棚を熱心に見ていた。細い肩に植物の茎みたいな細くてすらりとした手足。さわやかなパステルグリーンのフレアスカートが目を引く。背中までの長さの髪はほんのり茶色でウェーブがかかっている。まるで大学生みたいな出で立ちだ。熱心に本を検分する横顔はとても若い。少女のように甘い顔立ちが、僕の胸を震わせる。

 ページをめくる細い手を見て、僕は意識して呼吸をした。本当は僕も推理小説が好きだからその棚を見たかったのだけど、見つからないようにしないといけない。見つからないことが最優先だ。僕は彼女に背を向けて、足音をひそめて立ち去ろうとした。
「村木さん………?」
 気配が動き、細くて甘い声が、追いすがってきた。僕の足が凍りつく。

 ホワイトチョコレートみたいな甘い声。僕はあの甘さが大の苦手だ。胸焼けする。一粒食べたら向こう10年は摂取したくない甘さ。
 彼女がこちらに近づいてくる。フレアスカートがふわりと翻り、甘い香りを散らす。乗り物酔いに近い気分の悪さが僕を襲う。
 あの頃と今とでは僕は全く容姿が違う。知らんぷりしてどこかに行ってしまえばよかったものを、僕はその声に足を凍りつかせたままだった。
「やっぱり村木さんだ」
 彼女は僕の後ろから回り込んできた。さすがにどうしようもなくなって、僕も顔を上げる。
「佐倉先生……」
 彼女は佐倉先生という、僕が通っているはずの中学の養護教諭の助手をしている人だ。
「こんにちは、今日は、お出かけ?」
 僕はキャップを取らずに微かにうなずいた。佐倉先生の声の甘さが強くなる。
「そう、最近、学校にあんまり来てないみたいだから…心配してて」

 彼女が動くたびに化粧品とか柔軟剤とか香水とか、そういう、いわゆる女性らしいものの匂いがたくさんした。僕は立ちくらみしそうになる。
「髪切ったんだ、よく似合ってる」
 言葉の温度が高い。僕は心をびくりと震わせた。
「……先生、僕は」
 彼女から少しでも離れようと、僕は何かを言わなきゃいけないと思って、空回りした。彼女の前で、この一人称を使ったことなんか、一度もないのに。

 先生は少し笑った。人がいない本棚の隙間で、彼女はするりとパーソナルスペースに入ってきた。華奢な両手が、僕の手を取った。
「もう会えないかと思った」
 甘い声。甘い匂い。息が詰まるようなパーソナルスペースの近さ。吐き気がした。慌てて息を吸い込もうとする。
「会えてうれしい」
 彼女はふわりと笑って、僕の手を握り、顔を覗き込んだ。細い指がそっと僕の指をなぞる。僕の呼吸が震えた。
「あ……あの…」
「ん?」
「そろそろ行かないと…」
 揺れる呼吸を必死に押さえつけて、絡まる指を、強い力を使わずになんとか引き離そうとしながら、僕はそれだけ呟いた。

「うん、わかった」
 佐倉先生は手を離してくれた。僕は揺れる呼吸を押さえつける。小柄な先生は僕より少しだけ背が低い、さっき、電車で話したあの子と同じくらいのサイズ感だ。その細い体が、不意に僕に触れた。
「え……」
 それは一瞬の出来事だった。彼女は僕を抱きしめたのだった。そっと背中を撫でられて、耳元で囁かれた。
「好き」
 凍りついたまま動けない僕に笑いかけて、彼女はその場から去った。僕の膝はがくがく震えた。うまく息ができない。水の中で馬鹿みたいにもがいている気分だった。

 僕は力を振り絞って本をいったん棚に戻し、トイレに行って吐いた。

◇ ◇ ◇

「みーくん、水飲んで」
 僕を座らせて、月さんがボトルを突き出してくる。僕は震える手でキャップを開けて、砂漠で遭難し渇きに耐えかねた飛行士のごとく、水に口をつける。月さんは少し隙間を開けて僕の横に座り、手をずっと握って、黙っていてくれた。
 水の冷たさと潤い、そして、月さんの温度の合う優しさに救われて、僕は比較的短時間で落ち着くことができた。
「ごめん…月さん……」
「いいよ」
 月さんは少し口をつぐんでいたけど、すぐに聞いてきた。
「久しぶりに出かけたから、緊張したのかもね」
「…うん」
 月さんは聡い人だから、僕に今起こっていることについて、少しでも悟られないように、別の方向に話を流せるようにと、僕は苦心した。
 買ってきた『幽栖の夢』をしっかりと胸に抱いて、体の中でぐるぐるうずまく恐怖を鎮めようと努めた。僕は、弱い。とても弱い。こんな些細なことで、この世界から消えたくなってしまう。
 僕を見ないで、僕を放っておいて。誰もいないところに行きたい。僕のことを誰も知らない、誰も僕のことを考えない。そういうところでひとりで息をしてじっとしているから、どうか、誰も……。

 どうか、僕のスペースに土足で入ってこないで。僕の心に素手でさわらないで。

 これがまさしく幽栖の夢に綴られた叫びだと知ったのは、数日後のことで、僕はまた、橋本先生の本に救われたのだった。

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