習作③「親愛なるこの夜に」

 頭が痛い。
 鼻の奥と胸の奥の気道がキュッと狭まってる感じ。息苦しい。
 低気圧か、くそ、外を見なくたって体調でわかる、わかってしまう天気。
 そして尋常じゃない気だるさと下腹部の違和感、ふらふらする浮遊感。何か支えが欲しい感じ。
 僕は床に座り込んで読んでいたサン=テグジュペリの人間の土地をベッドの上にぶん投げた。ベッドの上だから多少乱暴にしても受け止めてもらえると信じて。
 ため息が溢れる。
 手足がいつも以上に冷たいことに気づいて僕は舌打ちをする。激しい苛立ちで自分の心がいろんな方向に飛んでいくのを感じる。
「だめだ、だめだよ、コントロールしなきゃ、だって僕の体だろ、僕の心だろ、僕の物だろ」
 言葉にすれば、目に見えないままふわふわ空中を漂ってる概念が形になって、少しは暴走する感情の制御に役立ってくれると期待した。
 でも今回はなんか、だめみたいだ。
 呼吸が浅くなる。口の中がカラカラに乾く。胸元に嫌なものがこみ上げる。もうだめだ、気持ち悪すぎて言葉を口にすることができない。こうなったらもう、発作の幕開けだ。
 そして世界は僕の知らない世界になった。
 うまく言語化なんかできない。あえて言うならば圧迫感。そして恐怖感。手足が言うことを聞かない。どこにどう逃げようとしたって、何か凄く良くないものが僕を背中から羽交い締めにしていて、絶対に逃れられない。    
 怖い、怖い怖い怖いこわい、怖い、怖いよ。
 何が、一体何が怖いっていうんだ、僕よ。
 ぎりぎりで残っている自分自身を奮い立たせて、言うことを聞かない僕の体と心を無理やり動かす。
 この不可解な現象は、医学的にはパニック障害と呼ばれるらしい。僕はもともと体は女だけど心は男性よりの中性で、自分の体をあんまり受け入れられていない。でももう第二次性徴期に入っている僕の体は、律儀に毎月生理なるものがやってくる。
 言わなくてもわかると思うけど、僕の心はおそらくこの事実を受け入れられないので、不適応を起こしてパニックになる。
 自分の体なのに自分の体じゃないみたいな恐ろしい不快感が、およそ15分に渡って続く。ここまで分析ができているにもかかわらず、この症状も律儀に定期的にやってくるものだから僕のストレスは尋常ではない。
 くそ、でも僕は誇りある1人の人間だ。理性と知性を持ち合わせて、合理的に生きることを良しとする生き物だ。
 だから僕は、カッターもブロンも使ったりはしない。物事の根本的解決に至らないそれらを使ったところで、僕は幸せになんかなれない。僕は一瞬の快楽がないと生きていけないほど落ちぶれちゃいない。僕は我慢できる人間だ。苦しみに耐えられる人間なんだ。
 過呼吸と体の震えを抑えるために僕は口を引き結び、床にうずくまった。
 そして言うことを聞かない僕を納得させるために、言葉を並び立てる。
 女だとか男だとか、そういうのはどうでもいいことだ。たまたま体が女だっただけで、女として生きていかなきゃいけないなんて道理はない。人間にはジェンダーを選択する権利があるはずだ。好きになる人だって選んでいいんだ。学校に行きたくなかったら行かなくたっていいんだ。
 僕はその全てをちゃんと叶えている。自分の意志でやってる。だから、この毎月来るこれなんか、我慢すればいいことだろう。
 頼むよ、言うことを聞いて、僕の体と心でしょ。
 時計を見る。
 時刻は午前4時半。発作が始まってからそろそろ10分経つ。あともう少しで終わる。と、思えば終わる、これは認知の問題、きっとそう。本に書いてあった。
 チャイムが鳴らされた。
 体がこわばる。繊細すぎる自分の反応にいらいらして呼吸がまた早まる。だめだ、落ち着け。
 訪問者に出られないままうずくまっていたけど、今日は父さんがいるから、大丈夫。
「はーいはい、高田くんかなあ」
 なんて、父さんが半分寝ぼけた声で出て行く音が聞こえた。自分のことを完全に棚にあげるけど、早く寝て欲しいと思う。父さんは仕事が忙しくて、最近あまり寝ていないらしいから。
 続いて、ドアが開けられて、がたがたとした物音。それにじっと耳を傾けていれば認知の方向がずれて僕が落ち着いてくれるかもしれないと思ったけど、下腹部の違和感が押し寄せてきた途端すかさず吐き気も押し寄せてくる。なんてままならない体だろうか。
 それから数分間自分と戦っていると、遠慮がちに部屋のドアを叩かれた。
「深琴、高田くんが来てくれたよ」
 父さんの知的で穏やかな声が聞こえて少し呼吸が楽になったけど、やっぱりまだだめだ。
 言葉を返したくても気持ち悪すぎて言葉を発することができない。
「彼はどうやらあまり体調が優れないみたいだ、僕はまだ仕事が残っているから、君がそばにいてやってくれないか」
 僕の発作はよくあることなので父さんは察したらしく、ドアの向こうで来客に話をしてくれたようだ。
「深琴、高田くんが部屋に入るよ、僕は書斎にいるからね」
 父さんがドア越しに僕を気遣ってくれるのが嬉しかった。それなのに答えられない自分が嫌で、すごく死にたい気持ちになった。
 僕が泣きそうになっていると、ドアがそっと開けられた。
「みーくん、おれです、来たよ」
 清潔なシャンプーの香りがほんのりとして、うずくまる僕の前に、黒いジャージを着た月さんがしゃがんだ。
 僕はスマホを掴んで、予め用意してある文面を彼に見せた。
 発作が起こると僕は喋れなくなる。そんな時に意思表示をするためには文字に頼るしかない。
 自分の今の状態を説明する文章を見て月さんは、胸の前で右手の甲をこちらに向けて、すっと一回その手をそのまま下に下げる動作をした。
 これは、了解の意を表す手話。
僕が文章で言葉を伝えたときは必ず、あとは月さんの気が向いたとき、彼は返事に手話を使う。
 僕も月さんも聴覚や言語に障害があるわけではない。わざわざ手話なんか使わなくたって、月さんが声に出して言葉にしてくれれば僕はそれでわかる。それでもわざわざ手話を使うのがわからなくて、彼に聞いてみたら、「君の気持ちをわかりたいから」と返ってきた。つらくなると口がきけなくなる僕を気遣ってくれているのだろう。
 おかげで僕もいくつか手話を習得した。

 過呼吸を繰り返す僕の隣で、月さんは体を少し斜めに傾けた。一緒にいることが慣れた人がそばにいると、少しずつ落ち着いてくる。手に力と温度が戻ってきて、呼吸が楽になって、口の中がいつもと同じくらいに湿ってくる。
 今日はこの収束パターンのようだ。慣れている人がそばにいた方が落ち着くやつ。
 僕は黙ってスマホをぽちぽち構っている月さんにならって、自分のスマホを掴んでTwitterを開いた。
 Twitterは寂しがりやが集まる場所だと思っている。僕が寂しがりやだからだ。
 TLをスクロールしていると、手首にいっぱい傷をつけた写真が流れてきた。
 ああ、痛い。すごく、痛い。
 胸の奥がぐずぐずと痛んだ。
 たまらなくなって僕はTwitterを閉じ、メモを開く。
 痛いのは嫌いだ。苦しいのも嫌いだ。生きる実感をそんなものに求めたら僕の心が徹底的に叩き壊される。暗闇の中で吊るし上げられて、四方からバッドで殴られるみたいに。 僕はそうなりたくない。
 ストレスがたまって死にたくなったとき、僕はカッターで机の端をガリガリ削ったことがある。あと、よく爪を噛む。
 ガリガリすると、心がすっとする。でもすっとしたあと、ひどく惨めな気持ちになる。自分が世界一不幸になったような気持ちになる。僕はそんなとき、泣きながら想いを形に残して、言葉にして、ただどこにも届かない言葉を1人で溜め込む。誰かを傷つけるかもしれない言葉を、どこかに届けてはいけないからだ。だって、自分の心を慰めるために誰かを傷つけていいなんて道理を、この世界のどこにも見出せないんだ。
 誰かを傷つけたらその分だけ自分は傷つく。僕の心はそういう風にできている。優しくなんかない。ただ、脆いだけだ。
 ぼろぼろ涙を流しながら時計の進む音を聞いていると、ふいに隣からティッシュの箱が突き出された。
「...ありがとう」
 僕は月さんにそう言って箱ごと受け取った。言葉はもう話せるようになっていた。
 鼻をかんだり目元を拭いたりしていると、月さんが不意に口を開いた。気だるげで、でもとても優しい声だった。
「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでも、それがただしいみちを進む中でのできごとなら、峠の上り下りもみんな、ほんとうの幸福にちかづく一あしずつですから」
 夜明けの光が徐々に部屋にさし始めて、前髪で目元が隠れた月さんの細い首と小さな横顔を照らした。
 嗚呼、やっぱり芸術品みたいな人だな。
「灯台守だ…」
 僕はため息と共に呟く。
 とてもきれいな声なのに、どことなく、言葉の端にたどたどしさが滲むその話し方が好きだ。
 彼が話してくれたのは、銀河鉄道の夜に出てくる、灯台守という人の言葉。僕が大好きな言葉だ。
「僕の行く道は、ただしいかな」
 情けなく、僕の声は揺れていた。
「君が生きたいように生きればいいよ」
 おれもそうだから、と付け加えられた言葉が暗闇の中でふわりと舞った。目の奥がじわりと熱くなる。
 月さん。本名は高田佑月。21歳で、僕の友達で、兄のような人だ。彼がどういう人かよく知っているわけじゃないけれど、以前父さんに世話になっていたらしく、うちに来るようになった。この時間にやってくるのは、夜遅くまでやっているお店で働いているからだ。僕は夜明けまでの少しの時間を、やってきた彼と分け合う。僕と同じように、夜にうまく眠れない彼に本を読んであげている。気がつくと横で眠っている彼を見ると、僕なんかでも役に立てたと実感できて、嬉しくなる。
 灯台守の言うように、僕の道が幸せにつながっているのなら、苦しい時間を乗り越えられるだろうか。僕が1日でいちばん恐れている朝を、愛せるようになるだろうか。
 みんなが当たり前に歩ける時間の中に、僕は行けない。みんなと違う道しか歩けない僕を、嫌でも実感しなければならない。
 僕の持ち物に、僕が望むものは何一つない。だから言葉に縋りつくことしかできない。こんな体、捨ててしまえたらいいのに。この人生を、ゴミに出してしまえたらいいのに。
「みーくん」
 月さんが僕を見ていた。
「つらくなくなるまで、ここにいるよ」
 朝に向かう空が明るく、光が暗闇にしみわたってきて、月さんの姿がはっきりとしてきた。僕は、彼の袖をそっと握って俯いた。
 太陽がこの世界を光でいっぱいにする前に、どうか、もう少し、もう少しだけ僕に、この時間をください。
 僕は夜の中でしか、うまく息ができないから。

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