Disecting Neversista(前編)

※本記事は同人ノベルゲーム「図書室のネヴァジスタ」に関する感想とかエッセイのようなものです。私なりの大きな感情が込められています。

内容はネタバレ祭りです。プレイ途中の方やこれからプレイ予定の方はこれを読まずに私の布教記事を読んでください(宣伝)。
図書室のネヴァジスタについて

※個人の解釈です。思考の整理を目的とする自己満足の産物なので、そんなに大した話はしていないです。  

※記事タイトルはかっこつけたけど要するに解剖してみたよっていう意味です。  

※キャラの話はあんまりありませんが、主に清史郎の話をしている項目はあります。  

※あんまり明るくない話をたくさんしています。ご注意くださいませ。  

①はじめに
 図書室のネヴァジスタに出会ってから、だいたい半年くらい経った。とても素敵な作品である。Twitterやリアルでうるさく喚いても邪険にせずに許してくれる人たちにはいつも感謝している。

 半年くらい経ってもうまく消化できていないものがたくさんあって、「こうかな?」と思っていても「やっぱ違う?」みたいなことがしばしばある。自分の考えがうまく定まらない。Twitterでいっぱいかべうちしてもあんまりうまくまとまらないし、服毒本につける付箋は増えていく…。  

 それでもいい加減何とか形に残しておきたいなあと思って、この記事を書くことにした。物語の構造やらキャラの関係性やらに対する感情の大きさと種類がなかなかに凄くて、全部書くと大変なことになってしまうので、ひとまずここではネヴァジスタという概念についての考察のようなものを書いていこうかと思う。テーマとしては割と真面目である。  

 これは前置きだけど、子どもの死をシーンとして多く扱っている作品なのであらかじめ言っておくと、私は自分の主義として自殺を肯定しない。もし目の前で誰かが命を絶とうとしたら、止めるだろうと思う。私のエゴのために。
 でも、命はその人のものだと思うから、死にたいと思う気持ちを否定しない。そして後述するが、私自身にも覚えがある感情ではある。
 これを踏まえて、ネヴァジスタに向き合っていきたい。  

②ネヴァジスタ
 いきなりだけど、ネヴァジスタって、なんだろうか。どんな概念なのだろうか。
 作中では本だったり場所だったり人だったり、結構いろんな物を指していた。  

 言葉を分解すれば、「ネヴァーランド」と「ファンタジスタ」。大人にならない場所。子どもだけの国。その場所に子どもたちを引き込む引力。清史郎いわく、「子どもの頃に誰もが手に入れて、必ず失う場所」。  

 これだけで、うんうん、とわかる方もいれば、私のように、うーん?となる方もいるかも(そんなことなかったらごめんなさい)。物語的にはお洒落な設定だなあとにこにこしてはいたが、いざ「ネヴァジスタって何ぞや?」と聞かれたらうまく答えられないようなもやもや感がある。たぶん、実感が伴っていないせいかなと思う。

 自分の人生にネヴァジスタがあったかどうかは人によって違うような気もする。少なくとも私は子どもの中に居場所がほとんどなかった側の人間で、むしろ家が居場所だったので、「ごめん清史郎、ちょっとわからん」という感じだ。  

 物語的な趣とか全部取っ払って考えてしまうと、たぶん安全基地を失った子どもたちの寄る辺がネヴァジスタということなのかな。
大人がいてはいけない、子どもだけの国。  

※安全基地
→エインスワースによって提唱された人間の愛着行動に関する概念。親との信頼関係によって形成されるもの。  

 でも、ネヴァジスタが安全基地ではないから不健康だと言い切るのはなんか、寂しい。ネヴァジスタは彼らの楽園で、大切な居場所だった。そこは否定したくないなと思う。清史郎も言ってたけど、そこから子どもたちを遠ざけようとする大人たちは「何を話したって、何を求めたって、なんにもわかりゃしない」っていう存在に見えてしまうんだろう。

 ここで今までにも何回か言っていることを改めて書くが、私はあの子たちの出会いと繋がりを否定しない。彼らの出会いは、奇跡で、呪いで、運命だ。私はそう思っていたい。周りから見たとき、どんなに悲しくても、つらくても。幽霊棟に集まった子どもたちは、みんな大切な友達になれたんだから…。  

「これだけは間違いのないことだけど、あの場所で俺たちは、幸せだった」  

 清史郎が信じたものは切実で、その喜びは本物の宝物なんだ。  

③それは、君が死ぬのと同じこと
 これは作中でもかなり印象深い台詞。いきなり突きつけられてびっくりしたのをよく覚えている。脚本を手掛けた都志見先生は、ピーターパン・シンドロームについて調べていく中で、「大人にならない方法はない、死なない限り大人になる」みたいな記述を見てこれを思いついたそうな。  

※ピーターパン・シンドローム
→大人という年齢に到達しているにもかかわらず、精神的に大人にならない男性を指す言葉。DSM(精神障害の診断と統計マニュアル)には載っていないため正式な精神疾患というわけではない。  

 これはネヴァジスタに行ったきり帰ってこれなくなることが該当するかなと思う。子どものままネヴァジスタに行けば、大人にならずに済むのだ。作中では主にワインを飲むなどしてみんながネヴァジスタに旅立っていく。どうしてだろうな、あのワイン本当になんとかならないのか。清史郎。聞こえてるか。割りに行ってもいいか。  

 子どものうちに命を失えば、たしかに大人にならずに済む。作中の子どもたちは大人になることを恐れ、大人を信用しない。けれど、それを乗り越えなければ決して大団円ENDを迎えられないという末恐ろしい構造をしているのがこの作品だ。このことからわかるのは、この作品は、ネヴァジスタは誰もが手にすると言いながらも、死にに行くことを肯定しているわけでは決してない、ということだ。だから図書室のネヴァジスタが描くのは明日に希望がある世界なんだよ。私はそう思う。  

④ファンタジスタ
 ファンタジスタとは、ネヴァジスタの語源になった言葉だ。コトバンクによれば意味は2種類あるようだけど、服毒本によるとサッカー選手の方の意味を取っているみたいなのでそちらで考えてみる。それにしてもきれいでかわいい語感。ふぁんたじすた!  

※ファンタジスタ
→ずば抜けた技術を持ち、創造性に富んだ、意想外のプレーを見せる天才的なサッカー選手を言う。  

 つまり、人を指しているのだ。この言葉とネヴァーランドをくっつけた造語がネヴァジスタである。ネヴァジスタにおけるファンタジスタは、ネヴァーランドに子どもたちを連れて行くほどの強い引力や魅力を持つ誰か、ということになるのだろう。  

 言わずもがな、御影清史郎のことだ。  

 彼にとって世界の全てだった兄を変えた「成長」を恐れ、大人になることを拒み、友人たちを永遠の喜びで満たされた国へ連れて行こうとしたピーターパン。  

 ファンタジスタである清史郎は、作中では幽霊棟の中心的人物として、みんなにとても慕われていた。あっという間に心の距離を詰めてきて誰とでも友達になれる彼は、とても魅力的な少年だ。楽しいことが大好きで、嵐のような突拍子のなさもあれば、友達がいちばん欲しているものにすぐに気づき、惜しみなく友愛を捧げられる。泣いている瞠くんに「いっぱい泣いていいから、瞠の代わりはいないから、どこにも行かないで」と言いながら、ずっと涙を拭ってくれたのは清史郎だった。それは瞠くんがいちばん求めていた言葉だったから、私は画面が見えなくなるまで泣いた。清史郎が友達だったらいいなあなんて、ちょっと羨んだりもした。

 でもファンタジスタ、君の寂しさを拭うためにはどうしたらいい?君の手紙は届かなくて、君がいちばん欲しいものをくれる人はそばにはいないのに。世界でただ1人の存在を求める彼は、置いて行かれてしまった小さな子どもそのもので、見ていて心が軋むようだった。(まあ、連れてこられるのだけど)(そこから本編が始まるのだけど)  

 そこから先の顛末は、共通ルートにて全て明かされている。ハニカムのneversista3でようやく、彼は欲しかったものを得たのだ。そしてファンタジスタは、ネヴァジスタにさよならを告げた。  

⑤ネヴァジスタの引力
 幽霊棟の子どもたちにとっては清史郎の存在が大きかったと思うけど、読み手からするとどうなんだろう、という思いがある。人はいかなる理由によって、ネヴァジスタに心を惹かれるのだろうか。

 これを考えていくにあたって持ち出したいのが、希死念慮である。私は経験したことがないので実感を持って語ることができないが、「具体的な理由はないが漠然と死を願う状態」という意味とのこと。自殺願望と似ているようで、違うとも言われる。私は違うと考えている。向かう先は同じでも、心の持ちようが、たぶん。  

 やや物騒&暗い話になるけど、自殺願望の方ならなんとなくわかる。「死にたい」よりは、「もう死ぬしかない」という感じ。欲望ではなくて強固な選択肢になる。非常に冷静に、そう考える。極限の視野狭窄の中で、死ぬ以外の選択肢が突然全て切り落とされるような感覚だった。普段はそういったことを全く考えない人間なので、そのときはとっても驚いた。沼から骨が見つかった時のみんなの気持ちはもしかしたらこれに近かったのかも。それはさておき。  

 希死念慮はこれとはおそらく異なるのだろう。もっと漠然としていて、けれども慢性的な「死にたい」「消えてしまいたい」という欲望。希死念慮の起源を考えてみると、自分の中の大きな苦しみが解消されないまま歩かなければいけない不自然さや、世界に対して感じるものの多さ、絶望感の大きさ、などが挙げられる。  

 ネヴァジスタを探す子どもたちは、希死念慮を容易に持ってしまえるような暗闇をそれぞれ抱えていた。孤独、過去のトラウマ、本当の自分と誰かに見せる自分の違い、存在意義……。希死念慮を持ちうるからこそ、ネヴァジスタを探すのだ。ネヴァジスタに行けば、苦しみから解放される。喜びが満ちた世界で、永遠に子どものままでいられる。
 苦しみの種類が多岐に渡っていることも、この作品が「しんどい」と言われ共感が寄せられやすい所以なのかもしれない。ネヴァジスタを探す子どもたちの姿に自分を見出すからこそ、プレイヤーの共感も高まる。

 でも、彼らほどには置かれた環境に問題がなかったとしても、人間関係がうまくいかないとか、将来への不安だとか、自分らしさと適性、周囲とのギャップだとか、そういう誰もが持ちうる苦しみも、ネヴァジスタへの扉になり得る。

 ネヴァジスタは永遠に子どものままで楽しく過ごせる楽園だから、現実で苦しむ子どもたちにとってどれほど大きな引力になり得るかは、想像に難くない。

 つらい日々の中で居場所を無くし、逃げ場も無くし、未来に絶望した子どもたちにとって、ネヴァジスタは希望だ。大人から見たら理解できない暗がりに見えるかもしれない。それでも、ネヴァジスタが持つ強い引力は、子どもたちの心を惹きつけて、連れて行く。  

 「ネヴァジスタを見つけた。それは、君が死ぬのと同じこと。」  

 子どもたちを連れて行かれたくない大人たちは、いったいどうしたらいいのだろうか。  

 私はそれをずっと考えている。  

(以降⑪くらいまであるんですけどめっちゃ長いのでこの辺で前編として切り上げます)  

つづく!!

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