『狭間の沼地にて』 第6章

<第6章:荒野の夜>

 夜の荒野の只中に、鬼火のような松明の炎が燃えていた。その明かりに照らされて、白い人影が腰をかがめ点在する潅木の陰を這うように進んでいた。遠目には亡霊さながらのその姿をもし近寄って見る者がいたとしても、白い髪を振り乱し赤い目を地にすり付けるようになにかを探す青年の姿を見れば、執念に迷う亡霊に出会ったとの印象はかえって強まったかもしれなかった。ミランの顔に浮かんだ切羽つまった焦燥は、それほど鬼気迫るものだった。

 求める解毒の薬草は潅木の根元にしか生えておらず、おまけに頼りない松明の光の下では求める葉の形を見分けるのも難しく、必要な量がなかなか集まらなかった。しかも潅木を伝い歩くことで我が身は瀕死の少年の伏せるあばらやからますます遠ざかり、夜の闇に溶け込んだ森へと吸い寄せられるばかりだった。自分がどのくらい森に近づいたのかもわからない。もしかしたら自分はとうに魔の森の闇に呑み込まれているのかも。そんな恐怖に抗いながら地面に目をこらす青年の白い顔を、油汗が冷たく伝い地に滴り落ちた。


 いつのころか聞こえていた音が梢を渡る風の音だとだしぬけにミランは気づいた。その瞬間、彼の視界の端、新たな葉を掴んだ手のほんの先の地面に、墨流しのように闇からおぼろげな紫色が浮かび出た。

 それは長衣の裾の形をしていた。

 ゆっくりと上を向く凍りついたまなざしを、淡い燐光をおびた人のものではありえぬ目が見下ろした。

 月が群雲に隠れた今宵、それも手を伸ばせば触れる近みに立つ闇姫の姿は昨夜以上に戦慄的なものだった。しかも昨夜あれほどなにごとかを訴え続けていた赤い唇は一言も発せず引き結ばれ、光苔のような光をおびた緑の瞳がひたすらこちらを凝視しているのだった。そして凍りついたミランの前で、闇姫もまた微動だにしなかった。ただ黒き梢を渡ってきた風が、彼我のくすんだ金と銀の髪をわずかにそよがせるばかりだった。


 どれだけ続いたのか定かならざる時の果て、無理な姿勢のまま凝固していた青年の緊張の糸が切れた。開こうとした口が呼吸の仕方を忘れたような喘ぎを数回くりかえたあげく、かすれた声がついに言葉の形をなした。

「わ、私を殺すのですか……」

 相手がわずかに首をかしげた。薄緑の光をおびた目もわずかに細められた。けれど言葉は返ってこなかった。いくらか姿勢を変えただけのミランの身が再びこわばった。


 かなりの間そうしているうち、ミランは相手が自分の言葉に、そして行動に注意を傾けているように思えてきた。言葉の意味が通じているような手応えは感じられなかったが、自分がなにかをいったりしたりするのをひたすら待っているような、そんな気がなぜかしてきた。止まっていた時間がわずかながら動いたように感じたとたん、恐怖に押さえ込まれていた焦燥が突き上げてきた。これでは間にあわない、バドルが死んでしまう! そう思ったとたん、ミランは身を起こし掴み取った薬草を相手に突きつけて叫んだ。

「これを持って帰らないと友が死んでしまいます。お願いです。見逃してください!」

 いきなり眼前に拳を突きつけられた形の相手は、だがわずかに頭をそらしたものの、むしろその目をより見開いて突きつけられたものを凝視した。渦巻く焦燥と恐怖にミランが恐慌に陥るかと思ったとき、音もなくおぼろな姿が離れた。そして潅木の根元を滑るように伝いながら、すばやく腰をかがめつつ何かを拾い集め始めた。たちまち戻ってきた影なる乙女は、あっけにとられた青年の目の前に集めたものを差し出した。

 薬草の束だった。ミランがそれまで集めたよりも多いくらいの分量を、森の姫は周囲の潅木をぐるりと一回りしただけで集めてみせたのだった。差し出されたものを見つめたままミランが呆然としていると、乙女はわずかに目を伏せた。それはなぜかひどく哀しげなしぐさに見えた。虚を突かれた青年は動揺した。

 そんなミランの前で、乙女は身をかがめ手にした薬草を地面に置いた。そして白き青年を見つめたまま音もなく退いた。
 ミランの手が反射的に薬草を掴んだ。だがあまりにも予想外の事態に、白き青年は自失していた。ただ焦燥の駆り立てるまま、その身はよろめきながらも来た道を戻り始めた。

 肩越しに振り返ると、闇姫のおぼろな影は立ちつくしたままのようだった。かいま見た哀しげな表情のせいか、闇に溶けた森のそばに取り残されたような姿がひどく孤独なものに見えた。胸の奥に感じた痛みにミランはたじろいだ。あれは千古の魔の森を統べる吸血鬼、数多の村や街を呑み込んだ深き闇の主にほかならぬ。そんなものに自分は何を……?
 心の声が答えようとしていた。それをむりやり振り払おうと、ミランはついに走り出した。


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 東の地平線にあばらやの舟のような輪郭が浮き出たとき、ミランはもはや歩くのがやっとだった。沼地に入る手前でついに彼は立ち止まり、荒い息を整えようと立木に身をもたせかけた。その目がふと来し方を向いた。

 闇姫の姿が荒野を半ばまで渡っていた。

 激しい動悸も乱れた息も一瞬に凍てつかせた白き青年の目の前で、影なる乙女の丈高き姿は荒野を滑るように渡りきった。だがミランから少し離れたところで足を止め、またも無言で彼を凝視した。

「……どういう、つもり、です……」
 ミランの呻きに闇姫は答えなかった。だが、その目が手に持つ薬草の束に向いているのに彼は気づいた。

「気になるのですか? これが……」
 言葉が通じた手応えはやはりなかったが、振りかざした薬草の束を緑の瞳が追いかけた。もう時間がなかった。そして相手がどういうつもりだろうと、自分にそれを阻むすべがないのも明らかだった。焦燥はもはや怒りにも似たものと化し、ほとんどやけくそというしかないものが元来は温和な青年を呑み込んだ。

「そんなに気になるなら見ていなさい。でも邪魔だけはしないでくださいっ!」

 あばらやによろめき入ったミランは扉に閂をおろし、かわりに窓を開け放った。たちまち乙女が滑り寄り、窓から中を覗き込んだ。

 だがバドルを見下ろした瞬間、ミランの頭から闇姫のことは一気に吹き飛んだ。少年の顔色は土気色になりかけていた。一刻の猶予もなかった。ほとんどそれと意識しないまま、湯を沸かし葉を摺りおろし、練り薬と煎じ薬を同時にこしらえると、傷口に練り込むとともに口にも布にしみ込ませた煎じ薬を含ませた。祈るような気持ちで脈を取り、血行がよくなるように腕を、そして肩から胸にかけてもみほぐし続けた。




 夜半過ぎ、少年が噛み合わされた死のあぎとをぎりぎりで逃れ得たことをミランは悟った。疲労困憊の白き青年は少年の寝台の枕もとの床にへたり込んだ。

 振り仰いだ赤い目が緑の目とまともに向き合った。

 その目に浮かんでいたものは、憧れのような、羨望のような、そんなものとしかいいようのないものだった。目を伏せたときにかいま見えた哀しみが、荒野に立ちつくす姿がまとっていた孤独の影が重なりあい、振り払ったはずだった胸の痛みが、心の声がさらなる強さで戻ってきた。

 人間ならざるその身にひどく孤独な魂が息づいていることを、ミランはもはや疑うことができなかった。

 緑の瞳が夜空を見上げ、丈高き姿が窓辺を離れた。窓から外を覗いたミランの目が、板の橋を渡りゆく後ろ姿を捉えた。

 ばかなことを考えるな! 分別がそう心をののしった。
 バドルが助かったのは彼女のおかげだ。心が言い返した。
 結果論じゃないか! 分別がさらに切り返した。
 思い出せ! 心が叫んだ。
 ガドルと出会ったときのことを、死にかけていた心にまっすぐ呼びかけてくれた者に出会えたときのことを!
 言葉も通じぬ化け物になにを! 分別が嘲笑した。


 赤い目は、だが決然と前を見た。

「待ってください!」

 橋を渡りきった乙女の足が止まった。ゆっくりと、こわばったような動きで向きなおった。昨夜と同じ場所で、同じように手を胸の前で組んで、ためらいと訴えの入り混じった面持ちで。相手の息苦しいほどの緊張を、打ち震える心をじかに感じながら、白き青年は一つ息を吸い込んだ。そして自分を指さしながら名乗った。

「ミラン」

 乙女の顔が輝いた。歓喜がその姿を、光景さえも一変させた。呪われた身に閉じ込められている魂が浮かびあがり、乙女の真の姿がよみがえったことをミランは直感した。赤い唇が震え、細い声が異質な発音、異なる抑揚で、しかし明らかに名前と認識した言葉を返した。

「Milan」
「ミラン」
「Milan!」

 そうして呼び交わしたのち、次いでミランは乙女を指ししめし問いかけた。

「あなたは?」

 だが、結果はミランの予想とはまるでかけ離れたものだった。撃たれたように目を見開いた乙女の顔にはたちまち悲しみの影が落ち、緑の目にみるみる涙があふれ出た。思いもしなかった反応にたじろぐ白き青年に、だが黄金の髪の乙女は微笑みかけた。細い、小さな声が思いを込めて彼の名を呼んだ。それはミランにあやまたず伝わった。なぜならそれは、彼がかつてガドルに寄せた思いと同じものだったから。

 なごり惜しげに振り返りながら去ってゆく乙女の姿を、ミランは揺れる心を持て余したまま、いつまでも見送っていた。


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