『狭間の沼地にて』 第4章

<第4章:村長の家>

 顔を撫でる夜明けの冷たい風に、バドルは目を覚ました。身を起こした少年の目が開け放たれた窓を、そして窓枠に身をもたせかけた白い青年の姿を捉えた。
 バドルの動く音を聞き付けたのか、青年が振り返った。疲れたような青ざめた顔に、だがほっとしたような微笑みが浮かんだ。その赤い瞳を、バドルはまっすぐ見返すことができた。疲れ果てて窓辺で眠っていたのだと、それほどまでに悪夢に苦しむ自分を見守り続けてくれているのだと改めて思ったことでかきたてられた感謝が、それを可能となさしめたのだった。

 それまでバドルは兄ガドルのようにはミランの姿を受け入れられずにいた。兄への敬愛の念ゆえに行動を共にしてはいたとはいえ、バドル自身がミランの吸血鬼めいた姿への忌避を克服できていたわけではなかった。だからこそ、それを苦もなく克服しているように見えたガドルへの尊敬がつのりもしたし、そんな兄を見殺しにしまった自分はなにがなんでもミランを見捨ててはいけないと思いつめてもいたのだった。

 けれど、わかってみればなんでもないことだった。彼は自分が悪夢に苛まれ続ける夜をずっと支え続けてくれていた。高ぶる感情を抑えられず殴りかかったことさえあったのに、変わらぬ態度で接してくれていた。そして、ミランはこれまで自分には疲れたそぶりなど見せたこともなかった。それがミランにどれほどの負担をもたらしているのか自分はろくに考えたことさえなかったというのに、彼は窓辺で眠ってしまうほど疲れていながら寄り添い続けてくれていたのだと思った。二人だけで暮らしてきた一年の間にそれとは気づかぬうちに育まれてきた信頼。その根の上に花開いた感謝。もはやそれらの前に、白子の青年の赤い瞳や白い髪になんの意味もあろうはずがなかった。知らず微笑みを浮かべ、バドルは声をかけた。

「……そんなところで寝てたんだ。疲れてたんだろ?」「あ、いえ……」

 一瞬相手の顔に浮かんだとまどいのような表情は、しかしバドルの注意にとまらなかった。

「ゆっくりしてて、ミラン。今朝の食事は俺が作るから」

 窓辺から台所に向かおうとするミランをバドルは手で制して、裏手に置かれた水瓶から水を汲もうと戸口に出た。すると横から声が呼びかけた。

「バドル、親父が呼んでる。すぐ来てくれ」

 見ると村長の息子ラダンが馬に乗ったまま、板橋のたもとで白いものが混じり始めた髭を不安げにしごいていた。

「朝飯がまだなんだ。待ってくれないか」
「飯くらいこっちで食えばいい。すぐ来てくれ」
「大事な話なんでしょう、バドル。行きなさい」

 窓から顔を出したミランに、バドルはしぶしぶ頷いた。そんなバドルに見られないように気をつけながらも、ラダンはミランに呪い払いの印を切った。

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 村長の家は他の農家よりいくらか大きかったが、構えや作りはさほど変わらなかった。この貧しい村では、たとえ村長といえど権力の基盤を築くほどの蓄財をする余力はなかった。
 そんなルザの村を長年にわたって治めてきたルダンが、人々のまとまりをなにより重視するのは当然のことだった。それは村の内の人々に対する慈愛に満ちたまなざしと村を脅かす者への仮借ない態度という、極端に異なる二つの姿勢の根底に位置付けられたものだった。寄る年波には勝てず武器を手にすることなどできない身でありながら、村を脅かす者が現れるとルダンは常に村人たちの先頭に立ち、敵に最後通告を突きつけた。老いたる村長は村人たちの精神的な拠りどころだった。実質的に敵と戦う身でありながら、バドルもその例外ではなかった。だが……。

「早くに呼びつけてすまないねぇ、バドル」

 村長の家の囲炉裏ばたに待っていたのは禿げた頭と長い顎鬚のルダンだけではなかった。ラダンの妻にしてこの村の現在の占師ミロワが隣に控えていた。型どおりに挨拶を返しながらも、だがバドルは渋面を隠すことができなかった。
 寒村にあっては人目を引く容姿をいまだ保っていたとはいえ、ミロワの占師としての評判は必ずしも芳しいものではなかった。ミロワの母だった先代は日々の天候や村に襲い掛かる災厄の予兆をことごとく告げることのできる霊力の持ち主だった。それだけの力を持つ先代にして、生まれたばかりのミランの将来について確かな卦を出すことはできなかったのだが、それでも闇姫と係りを持つであろうと告げたのが先代だったからこそ、殺されるはずだった赤子は命拾いしたのだった。

 占師としてのミロワは凡庸の一言に尽きた。他にましな人物がいないから先代から引き継いだ諸々の神具を身にまとっているにすぎなかった。口さがない連中は、ミロワは占師としてやっていけなかったからラダンに取り入ったとさえ噂する始末だった。
 そして占いよりはましとはいえ、薬師としてもミロワは非凡とはいえなかった。少し難しい症例であれば、彼女はあからさまに不機嫌な顔で村一番の薬師をたよるように告げるしかなかった。それが他ならぬミランだということも彼女の矜持を傷つけていたのは明らかだった。

 占いや薬師の才能に恵まれなかったのはミロワの罪ではない。それはバドルにもわかっていた。しかし、あの惨めな全滅を喫した戦いを戦神の奇跡と持ち上げたのだけは我慢がならなかった。たとえ村人を勇気づけるためだったとはいえ、そしてそうとでも解釈するしか説明のつけられぬ奇妙な状況だったとはいえ、あまりにも戦いの実情からかけ離れたミロワの卦はバドルをいらだたせた。なにもわかっていないくせにとの思いは憎悪めいた気持ちにまで高まることさえあった。気休めに逃避するにはあまりにも恐ろしい体験をしてしまった少年は、そしてそこから逃げ出した自分を許せずにいる少年は、惨めに死んだ兄や仲間たちに被せられた茶番めいた称号を受け入れることができず、だからといってそれをなかばすがりつくようにして信じている村人たちを切り捨てるようなまねもできずにいたのだった。そしてどっちつかずの自分を受け入れるにも潔癖すぎる、バドルはいまだそんな年頃の少年でしかなかった。


「ミランと暮らすのをやめろって?」
 大声を出したバドルに、村長ルダンは重々しく頷いた。ミロワがいくぶん青ざめた顔でいった。

「忘れたわけじゃないだろバドル。あいつはもうはたちになる。闇姫がいつこの村にやってきてもおかしくない時期なんだ」

 それは先代がミランが生まれる少し前に出した卦だった。これより二十年後に闇姫はこの地を訪れることができるようになる。夜明けまでに森に戻らねばならぬ闇姫が訪れることができるのは夜半までにたどり着ける距離。そこまで森が迫るのが今から二十年後であると。そして、直後に生まれたミランに闇姫との係りを告げる卦が出たことで、誰もがそれを村の滅びの日と受け止めたのだった。呪われた忌み子がはたちになる日を。

「だからって、なぜ俺がミランのところから出なくちゃならないんだ! 闇姫がミランのところへ来るから? だったらミランは俺が!」
「バドル!」

 ミロワを睨みつけるバドルにルダンが一喝した。立ち上がりかけていたバドルが腰を落とした。

「おまえがあやつを守りたい気持ちはわからんでもない。それがガドルの遺志だったのだから。だが、おまえは村一番の戦士だ。皆を守り、導かねばならぬ身だ。そのおまえがあやつと暮らしていてはルザの村はこの難局を切り抜けられぬ。おまえは村の中にいて皆を束ねなければならぬのだ。村へ、皆のもとへ戻れ!」

 言い放つルダンに勢いを得たのか、ミロワも言葉を続けた。

「あいつといっしょに暮らすということは、村の皆から離れて森のそばで暮らすということなのさ。見捨てられたように思う者もいれば訝しむ者もいる。なぜバドルは闇姫と係りを持つ忌み子のそばにいられるんだって、いつの間にか闇の森の妖気にあてられたんじゃないかってね」

「なにが森の妖気だ! ミランは化け物なんかじゃない!」

 バドルが顔を真っ赤にして立ち上がったとき、ラダンが転がりこんできた。
「て、敵だ。親父、バドル!」

 険しい顔でルダンも立ち上がった。
「この話はあとだ、バドル」
 その声を背に、バドルは愛用の弓矢を受け取るやいなや駆け出した。

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「命が惜しくば、このルザの村から早々に立ち去れ!」

 毅然として言い放つ村長ルダンの横で、だが黒髪の少年は違和感を覚えていた。村長が相手の目を引き付けている間に、少年でしかない自分が誰が頭か、誰を倒せば敵の戦意をくじけるか目星をつける。意表を突かれた敵を総崩れに追い込む最も効果的な戦法としていつしか定着していたやり方だった。

 そんな戦いで研ぎ澄まされた勘が、だが警報を鳴らしていた。正面に敵の頭に相当する者がいない? 敵の後ろについ先ほどの戦いの際に見覚えがある顔を見つけた瞬間、バドルは叫んだ。
「村長、罠だっ。読まれてる!」

 とたんに数本の矢が真横から飛んできた。一本がルダンの胸を貫通した。跳び退いたバドルの腕を一本がかすめた。とたんに意識が吹き飛びそうな激痛が少年を襲った。落ちた矢が毒々しい緑に濡れていた。

「毒矢か!」

 とたんに悪夢の一こまがよみがえった。兄の脇腹をかすめた魔獣の毒針の軌跡がずれて、自分の腕をかすめた。なかば忘我の状態になりながら、バドルは自分の矢ばかりか敵の打ち込んだ矢までも手当たり次第に殺気を感じた方角へと射返した。ほとんど狙いなどつけていないはずのその矢は、だが潜んでいた敵をことごとく打ち抜いた。

「ば、化け物だ!」

 動揺した敵に味方の矢の雨が射掛けられ、二度までも戦意を粉砕された敵は今度こそ壊走した。

 だが、そのどよめきを黒髪の少年は認識していなかった。その耳はこれまで一矢も報いることができなかった手負いの魔獣の咆哮を聞き、黒い目は肩に食い込んだ矢を折ろうともがく人面の獅子の姿を幻視した。自分の口元に笑みが浮かんだのを少年は感じた。
 そしてバドルの意識は、そのまま黒い沼のような闇の中に滑り込んでいった。


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