『隻眼の邪法師』 第13章の3

<第13章:幽けき星夜 その3>

 やっと赤みをなくしたざらつく黒い溶岩の上で、仰向けのまま短い手足を弱々しく足掻かせる赤子。それだけで肌がずたずたになるのではと思うほど小さくひ弱な存在。だが、リアの耳は聞き取った。その泣き声に聞く者の心を乱す魔力が宿っているのを。それが吸血鬼の身に堕ちた者の宿命たるあの呪わしき渇きゆえのものでもあるのを。聞いているだけで自分まで渇きにかられそうになり、リアは思わず耳を押さえて呻いた。

「……これが、この児が、全ての始まりだったというの?」

「始まりというわけではないわ。でもこの者が赤子だったから、あの人間は石の巨人でこの者を捕まえることができた」

 白髪の乙女のその言葉に巌の拳の記憶がよみがえった。それを感じ取ったのか赤子の泣き声が大きくなった。渇きに加え苦痛にまで精神をかき乱され、リアは思わず悲鳴をあげた。その脳裏にゴーレムの拳で血を搾らせつつ哄笑する残忍な魔導師イルジーの姿が、顔が、表情までもがまざまざと浮かび上がった。

 異様な鮮やかさだった。あれほど長い間接していたヨシュアの記憶からも、ここまで鮮明な容貌は伝わってこなかった。すると黒衣の乙女の声がそれに応えた。

「気をつけた方がいいわ。この者の力はおまえには強く作用するはずだから」

「なぜ? どういうこと?」

 自分のその問いかけに、だがリアはおののいた。自分の全てを見通す至高の乙女の存在が、その答えを予感させたから。そして白髪の乙女の言葉もまた、その予感を裏切らなかった。

「この者はおまえに、正確にいえばおまえを牙にかけたあの者にとって近しき者。同じ牙がこの者とあの者を転化させ、おまえはその下流に位置している。直接牙を受けたわけではないから抗うことはできるけれど、この者の力は支配と同等の強さでおまえに働きかけずにいないはず」

 リアは顔色を失った。だがそれは、赤子の力以上にあることを怖れたからだった。この地でヨシュアを半世紀も支配し苦しめた邪悪な魔術師イルジー同様、アルデガンにかつて潜んだ吸血鬼もまた己が犠牲者を嬲り苛まずにおかぬ嗜虐的な性癖の持ち主で、獲物がより苦しむようあえて生きたまま転化させるのを常としたことを知ればこそのことだった。

「では、この子は。まさか……?」

 言葉を続けられなくなったリアに、黒衣の乙女は告げた。

「確かめてみる? おまえならわかるはずよ」

 思わず我が身を抱き身震いした魔少女だったが、やがて右腕を解くと自分を見上げる赤子に歩み寄り、固く握りしめた左の拳を胸に当てて襲い来るはずのものに身構えつつも、小さな額に右の手で触れた。たちまちなだれこんできた深紅の濁流にあげそうになった悲鳴を噛み殺し、必死で己が意識を保つリア。だが津波のごとき渇きと苦痛はそんな彼女を一気に呑み込もうとする。細い牙を噛みしめながらもその意識の形をなさぬ圧倒的な混沌に抗いつつ、リアはその流れを遡り始めた。真っ向から襲い来る混沌の激流は魔性の身に閉ざされた心から容赦なく知覚を削ってゆく。周囲の景色が、音が、匂いが感じ取れなくなり、時間の感覚さえみるみる失われてゆく。そうして全てが奪われてゆく中、漆黒の空虚に取り残された飢餓ばかりが膨れ上がり、知覚の支えを失い翻弄されながらもどこまでも赤子の魂を降りてゆくのをやめないリアを圧倒しようとする。

 ついに力尽き意識が暗転し始めたそのとき、魔性の娘は垣間見た。赤黒い混沌の最奥にひとかけら、仄明かりの、温もりの記憶が残されているのを。死んで転化したなら決して保てないはずのその仄明かりと温もりに、赤子の意識が定かな形も取り得ぬまま縋りつき固着しているのを。


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