『隻眼の邪法師』 第12章の1

<第12章:修羅の洞窟 その1>

 巨大な石の拳に握りつぶされた薄い胸の下で砕けた肋骨が臓腑をずたずたに寸断し、食い縛られた細い牙の隙間から鮮血が一筋顎を伝い白い喉元へと滴っていた。人の身ならばそれだけで絶命しかねない凄まじい苦痛に何度も意識を失ってはまた同じ苦痛のさなかに引き戻されるのを際限なく繰り返す中で、リアはとうに時間の感覚を失くしていた。
 そして不死の肉体のみならず、呪われたその身に閉ざされた心もまた苛まれていた。だがその苦痛は彼女自身のものではなく、眼前に立つ隻眼の魔道師が感じているものだった。元から持っていた力が吸血鬼と化したことで強化された感応力。それを通じ、リアは我が身を襲う苦痛とともに、自分を責める相手の心がその度に苛まれるのを感じていたのだ。そしてそのたびに心をよぎる彼の記憶の断片が無限に続く責め苦の過程で積みあがり、いまや魔性の身に囚われた少女の魂には、邪法師に堕ちるしかなかった男の無惨な生の全容が映し出されていた。

 黒髪の民により目の前で惨殺され、文字通り切り刻まれた父や母。その両親が自分を守れなかったことを恨むしかないところにまで幼かった彼を追いつめた邪悪の権化のような魔導師イルジーの残忍な責め苦。そんな中で男は心を凍てつかせ、黒髪の民への憎しみや魔導師イルジーへの呪詛を支えに生き延びた。彼自身はそう思っているのだ。呪うべきイルジーを倒し仇敵と同じように黒髪の民に恐ろしい実験を繰り返してもなんの痛痒も覚えなかったから、かつての自分はとうに消えてなくなったとしか思えずにいるのだ。
 この男は気づいていないのだ。あの日とっさに名乗ったヨハンという偽りの名は怨敵を欺きついに倒す決め手になった一方で、彼自身をもなかば欺いてきたことに。真の名を隠すことで生じた心の亀裂のような記憶の隠し場所。そこに封じねばならなかったものこそ真の支えであったことに。両親を呪わねばならなかったとき、彼は記憶の表層から二人の顔を消した。それを覚えたまま呪うことができなかったから。そして自分が守れなかった小さな妹と弟のことも心の底へ、彼自身すら容易に手の届かぬところへ封じたのだ。仇敵と戦えとの黒き啓示を受け小さな鬼にならねばならなくなったとき、彼は歪みゆく自分から家族を切り離した。それが邪魔だったのだと彼は思っているが、そうしないと家族の記憶を守れなかったからとしかリアの目には映らなかった。彼はかくて理不尽に奪われたものの僅かな残滓に固着しつつ、それを支えに生きてきたのだ。

 さもなくばなぜ今になって、何十年も前にいなくなった妹の面影を彼は見るのか? 同じ髪の色の自分にならまだしも、よりによって黒髪の民のあの少女にまで妹の面影を重ねるようなことが起こるのか? 忘れるどころか今なお彼は、封じたはずの記憶に囚われているのだ。走り去る馬車から最後に自分を、本当の名で呼んだ幼い泣き声にいまも呪縛されたままなのだ。
 確かにそれは、あの少女の救いにはならなかった。黒髪の民への彼の憎しみはあまりにも深く、彼は少女をイルジーの呪うべき研究の端緒となったものの餌食にしてしまった。彼自身はそれを見たことがなかった。この牢獄の奥深く、鎖に繋がれた何者かが存在することをイルジーの言葉から知っていたにすぎず、怨敵を打ち破ってからも彼はあえてそれに触れようとはしなかった。今さら研究の端緒に立ち戻ることを最後の闘いで縮められた寿命はもはや許さなかったから。そんな彼を死神への最後の抵抗に駆り立てたのが水源の村で自分が亡者たちを焼き払った炎だと知り、リアはその身もろとも心を握りつぶされる思いだった。しかも自分が侵入したことで彼の関心は少女から離れ、哀れな娘は暗闇に打ち捨てられたまま牙の餌食と果てたのだ。

 無惨な亡骸を見たとき殺意にまで高まろうとしたあの憤りを、だがリアはもはや感じることができなかった。少女や水源の村の者たちに対して重ねられた非道の数々が詳らかになってさえ、心を染めるのはただ悲しみだけだった。深く病んだその身を支える気力も限界に達し、いまや岩壁に背をもたせてやっと立っている仮面の邪法師。その気力を削いだのがイルジーの最後の術による死毒のみならず、拷問する相手に重ねてしまった妹の面影を振り払えないその思いゆえであるのがもはや丸見えだったから。取り戻せぬ過去に呪縛され苦しむその姿が、魔性の身へと堕ちてなお失いえなかった心に苛まれていたあのラルダに重なって見えた。あのとき自分を牙の呪いに陥れた当の相手に涙した空色の瞳は、ついに残酷な石の戒めで身を苛む相手に対し、心にぱっくり口をあけた裂傷からの色なき血のような一筋の涙を流すのだった。


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