『碧い瞳の乙女たち』 第4章:夜明けの平原 前編

 いつの間にか星々の輝きが薄れ始め、東の地平線に微妙な色の変化が現れつつあった。夜が終わりを告げようとしていた。

「……あなたは私にも選ばせに来たの? 人間の心を持ち続けるかどうかを……」

「それだけなら来なかったかもしれないわ。話もしてみたかったから」

 淡く霞み始めた銀河の下で、身の丈ほどもある雪白の髪を背に流した乙女がリアを見下ろしていた。

「おまえは最初いったでしょう? 西の森のあの者が苦しむのを放置したのかと。あの者は私が牙にかけた者だったから、様子はもちろん感じ取れた。だから私は何度も記憶を消した。
 でもあの者は人間だったときから森との絆を持ち、加護の力を受けていたようだった。自分が日の光を浴びながら森のはずれを歩いたことがあったという、たった一つの記憶だけは消しても消しても取り戻した。だから私も諦めた。私の力もあの者にだけはとうとう及ばなかった。
 でもおまえはまったく違う方法であの者を救った。だから一度話してみたかったのよ」

 銀河がついに天空に溶けた。

「あの者もおまえに安らぎを願っているわ。自分の心が歪むのを恐れながら魂に苦しみを重ねなくてもいい。もう理に戻るだけでいいのよ」

 その声と重なるように、リアの脳裏にこの一夜の体験が流れるようによみがえった。多くの感じたことのなかったものを感じ、知らなかったことを知った夜だった。目くるめく思いだった。その思いの中から、一つの言葉が浮かび上がった。二人の乙女との出会いに向けた思いを表わす言葉が。

「……ありがとう……」

 乙女の白い顔を見上げた青い目に、また涙が浮かんだ。

「私に安らぎを願ってくれて、私を心にかけてくれて……」

 しかし、リアは立ち上がった。涙のしずくを振り払い碧い瞳をまっすぐ見上げながら。

「あなたに会えなければもう限界だった。あの人のことを知らずにいたとしたら。でも、まだもう少しこのままでいるわ……」

 白髪の乙女は無言だった。静かなまなざしが先を促した。

「私が理に入れば、私は牙にかけた人を転化させることになるのでしょう?」

「そうよ」低い声が答えた。

「ならば、その中から私のように苦しむ人も出るかもしれないのでしょう?」

「理に在る者はわざわざ吸い残したりしないわ。心歪ませた者のようには」

「でも、牙にかけた人を逃がしてしまうこともあるかもしれないでしょう?」

「絶対にないとはいわないけれど」

 するとリアのまなざしに力が、決意がこもった。

「だったらもう少しこのままでいさせて。誰かにこんな苦しみをもたらすかもしれないのなら。私はまだ耐えられるから!」

「心歪めば誰かを苦しめる危険ははるかに増えるのよ?」

 訝しげに問う相手に返す声にも力がこもった。

「わかっているわ。でも、あなたたちと出会った思い出があれば耐えられると思うから。私を滅ぼしてくれる者に出会う日がくるまでなら」

「起こるかどうかもわからないことを避けるために、自分だけが苦しみを引き受けるつもり?」

 リアは地に横たわる旅人の骸の傍らに膝をつくと、その上体を抱き起こした。

「もう私はどうしても人間を殺めるしかない身。ならば、せめて自分が殺めた人は最後まで人間として死なせてあげたい。あなたには悪いけれど、私はやはり誰も私のようにはさせたくないの。これは、この思いは私に最後に残された人間の証なのよ!」

 リアの目に久しく失われていた光が宿った。その光の激しさに黒衣の乙女はわずかに目を細めた。そして微かに呟いた。

「その目は真昼の光を宿す。瞳はもう二度と見ることのできない青空を永遠に映す。その覚悟の、その魂の表象として……」

 白髪の乙女は膝をついたリアを見下ろした。

「あれほど苦しんでいながら断った者などいなかったわ。でも、なんだかこうなりそうな気もしていたけれど」

 吸い込むような碧い瞳が、光を宿した青い瞳を見すえた。

「今までのおまえは心ならずも理の外に置かれた者だった。だから私は憐れんだ。でも、おまえがこうして自分の意志で理の外を歩むならば、もう私は憐れまないわよ」

「わかっているわ」見上げる青い瞳は揺るがなかった。

 すると黒衣の乙女もまたリアの正面に膝をつき、いくぶん柔らかな声でこういった。

「ならば一つ頼んでもいい?」

 そういわれて、リアはとまどった。

「あなたが、私に? 私なんかになにを……?」

「おまえのこれからを見ていてもいい?」

「私を、私のこれからを見ていたい? どういうこと?」

「そのままの意味よ。おまえがこれから見たり聞いたりすることを私も知りたいの。直接牙にかけた西の森のあの者のように」

「だって、あなたは誰に対しても支配の力を持つんでしょう? だったらわざわざ許しを得る必要なんかないじゃない」

「そのとおりよ。でも普段はこんな力を使うわけではないの。理の中に在る者ならただ自然に生きているだけ。吸い残された者は結局は人間としての煩悶に縛られている。わざわざ見る必要など感じないから」

 かすかな笑みを含んでそういった乙女が、真顔になった。

「それにおまえは自分で理の外をゆくと決めたのだから、自分の在り方を自分で決めたのだから、勝手なまねはしたくないの」

「……だったら、条件が一つあるわ」「条件?」「ええ」

 リアは赤く染まり始めた東の空に目を向けながら続けた。

「私のことを見ていてくれるのなら、もし歪んでしまったときは私の魂を砕いてくれる?」

「おまえは今の考えで未来の自分を縛るつもり? そのうえその判断を私にゆだねるの?」

「でももし歪んでしまったなら、私はもう今のようには考えたりしないはず。私が今望んでいることはわかってもらえたと思う。だからそのときは私を理に戻して。私のことを見ていようというのなら。それが条件よ」

「おまえは本当に変わっている。しかも一筋縄ではいかないわ。おまえは私の意志や力を超えた二人目の者になる気なの?」

 乙女の雪白の口元に再び微笑が浮かんだ。

「ならば見せてもらうわ。どこまで頑張るつもりか」


 ついに空が白み始めた。

「夜ガ明ケル」ガルムが唸った。

「その男の骸はどうするつもり? そろそろ甦るわよ」

 白髪の乙女が声をかけた。リアがガルムを見た。

「ソノ心ノママニ」

 唸り声にうなづくとリアは乙女に向き直った。

「私が預かっていいわね? 人間として葬ってあげたいから」

「好きにするといいわ」

 白い髪を翻して黒衣の乙女は立ち上がったが、ふと振り返るとリアに告げた。

「東の国のはずれで奇妙な動きがあるわ。何者かが吸血鬼の力に手を出そうとしているのかもしれない。吸血鬼のようだけれど、なんだかいびつな、不完全な存在を感じる」

「それは、またなにか災いをもたらしそうなものなの?」

「人間が私たちの力にあえて手を伸ばせば、少なくとも人間には災いにならないはずがない。それは彼らにとっての自然な在り方を外れることでしかないのだから」

 そういったあと、乙女はつけ加えた。

「自分で行こうかと思ったけれど、おまえに託してもいいのよ。人間の心を持つ身でなにを思うか、見てみたい気もするから」

「考えてもいい?」

 乙女がうなづくと、どこからともなく風が吹き始めた。純白の長い髪と翼のような黒衣の袖をなびかせた姿が薄れ始めた。

「幽界からの風よ。存在の核に人間の肉体を持たぬ私はいくらか霊体に近い身。だから現し世と幽界の狭間を行ける」

 その声を残し、白髪の乙女の姿は風の中に溶け込んだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?