『隻眼の邪法師』 第13章の4

<第13章:幽けき星夜 その4>

 リアが意識を取り戻したとき、幽けき星の光は白み始めた空に溶けてゆくところだった。思わず身を起こしたリアの横で、また赤子が泣き声をあげた。夜が明けつつあるのを感じているのか、その声には怯えが滲んでいた。リアは思い出した。渇きと苦痛に塗りつぶされた意識の奥底で、記憶とさえ呼べぬほど定かならぬ光と温もりにしがみついていた赤子の魂を。一瞬の逡巡を経て、リアは赤子をそっと胸に抱き寄せた。自分を見上げる小さな顔が涙でうるみ、堕とされた少女は同じ宿命に呪われた幼子をひしと抱きしめた。

「連れてゆくのね」
 白髪の乙女が静かにいった。
「……このままになんかしておけないもの」
 応えた魔少女に、黒衣の乙女は言葉を続けた。
「わかっているようだけど、おまえの力では抑えきれないわよ。その者はおまえがいたあの城塞都市よりも古くからこの世に在るのだから」
 無言で頷き、空色の瞳に決意を込めて至高の乙女の湖のごとき目を見返すリア。やがて二人を背に乗せた魔獣は明けゆく空へと舞い上がり、黒い溶岩に閉ざされた大地に佇む白い人影もあっという間に遠ざかってゆく。


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 翼持つ影が紫雲の彼方に飛び去ったのを見届けた後も、黒衣の乙女はなおその場に佇んでいた。雪白の髪が微かな風にそよいでいなければ、その姿は彫像とさえまがうほどだった。
 その身一つで人間という一種族に相対するただ一人の完全体の吸血鬼は、その大きな目を軽く閉じ、意識を風に託していた。その身をなかば幽界に置く悠久の放浪者。無数の風の道から一つを選び歩む時の旅人。それでもその身が人間という種族に縛られている以上、頭上の蒼穹をゆるやかにまたぐ太陽がその身の時をも刻んでいるのを至高の乙女は知っていた。たとえ人間族が滅びぬ限り滅することなき身であろうとも、それでも自分がつかの間の旅人でしかないことを。こうして意識を無数の風に乗せて数多の人間や眷属の息吹を感じてはいても、隠されているものも決して少なくはないということも。

 そして今、白髪の乙女は感じていた。リアが感じ取れなかった微弱な気配を。数百年の時を重ねた赤子のものよりずっと微かな復活の、より正しくは目覚めの蠢きを。それが脈動を始めたのを認めて風の乙女は目を開けた。深淵を秘めた湖面のごとき碧眼が全てを朱に染めつつ沈みゆく夕日を映した。
 やがて夕映えの最後の残光も失せた天蓋に再び遠き星々が瞬き始めたとき、黒衣の乙女は歩み始めた。崩れた火の山の残骸たる無数の岩の一つの陰にそれはうずくまっていた。両肩を抱き身を縮め、ひどく震えている小さな人影。歩み寄る気配に上げた黒髪を乱した小さな顔。黒い瞳に涙を湛え歯の根もあわぬほど震えているのは、かつてエルゼという名で呼ばれていた水源の村のあの少女だった。


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