『隻眼の邪法師』 第12章の18

<第12章:修羅の洞窟 その18>

 赤く塗りつぶされた視界が晴れたとき、四人の目に飛び込んできたのは予想もできぬ光景だった。

 床一面に瓦礫と得体の知れぬ干物らしきもの、そしてどろりとした汚泥のような異臭を放つものがぶちまけられていた。魔導師のしわざかと思ったとたん、またも襲う大きな揺れに棚に残っていた壷が落ちて砕けた。そしてその惨状を、扉の通気孔から差し込む陽光がくまなく照らしていた。

「出口? まさか!」

 戸惑いを隠せぬアラードの声に野太い声が重なった。

「とにかく出るぞ。だが足元に気をつけろ。特にその泥みたいなものには絶対触れるな! 人間を亡者にする毒かもしれん」

「ではあやつ、ここの書類を持って行ったということか」

「オルトよ、こんなもののために……」

 グロスに導かれつつ、アルバが呻いた。

 脱出した四人は背後を振り返ったが、幻術がかかっていたのか扉は影も形もなかった。そして薄い煙を静かに上げていたはずの頂からは巨大な噴煙が吹き上がり、昇る太陽を阻むかのように天蓋を圧していた。思わず川筋へ下りかけたアラードをボルドフが呼び止めた。

「下っては溶岩に呑まれる。とにかく高い場所へ行くぞ」

 そして一同は揺れる大地に足を取られつつも川筋とは反対側の緩い傾斜を遠く逃れ、その先にあった丘を登り始めた。


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 奈落から吹き上がる凄まじい熱気に喘ぎつつ兄は、ヨシュアはそれでも水晶玉を注視していた。やがて小さな光が上っていったのを見届けると仮面を外して天を仰ぎ、万感を込めて呟いた。

「さらばだ、ポール……」

 そして兄はもはや用のない水晶玉やイルジーの覚え書きを床に置くと、脇の下に杖をあてがい傾いだ身を支えつつ、破滅を呼ぶ3本のレバーを押し上げようとした。

 ただそれだけのことのはずなのに、レバーはびくともしなかった。限界を超えて酷使した瀕死の肉体に、力などもはや残されていなかったのだ。ヨシュアは傲然としたが、次の瞬間、死にもの狂いで右のレバーに挑みかかった。いや増す熱が弱り切った体を容赦なく苛む中、ようやく半ばまでレバーを押し上げた。だが、腹の底から突き上げてきた苦悶に身を折ったとたん、見たこともなかったほど大量の血を彼は吐いた。たまらず膝を屈し己が血の臭いにむせる中で遠のきかける意識。しかし暗転しかけた脳裏に溶岩に呑まれる弟の悲鳴が響いたとき、兄はよろめきつつも立ち上がり、再びレバーを押し上げ始めた。もはや単に重いというにとどまらず、悪意もむき出しに抵抗するレバー。己が声音をした何者かが楽になれ、自分のしたことをなかったことになどできはしないと懐柔しようとするその言葉。それら全てに抗いながらも二度、三度と続く発作がごっそり削ってゆく力の残滓をかき集めては削げ落ちた筋肉に、歪められた骨に片端からつぎ込み長さの違う脚をぎりぎりと突っ張るその姿に、いまや横にある奈落から時折頭を見せ始めた炎の色の溶岩の泡が弾けては光を投げかけ、反対側の岩壁に巨大な影を焼き付けるのだった。それはまるで、神に罰せられ世界を担わされて苦吟する始原の巨人の姿さながらだった。

 そんな地獄の縁での苦闘の末、だが右のレバーはすでに上まで戻され、中央のレバーもまさに戻されようとしていた。さしもの溶岩も勢いを弱めたものか、奈落の縁から顔を出さなくなった。もはや死相を隠しようもない無惨に歪められた兄の顔に、いまや最後の勝利の輝きがきざし始めていた。

 だが最後の一押しと握る手に力を込め直した瞬間、傾いだ腰に小さな腕が背後からぐさりと爪を立て、その身をレバーもろとも一気に引き倒した!

「な!」

 驚愕しつつも伸ばした手は空を切り、指の欠けた手は下がったレバーにもう届かなかった。たちまち泡立ちはじめた奈落の炎の放つ光が小柄な襲撃者の姿を暴いた。

「お、おまえは……っ」

 それは黒髪の民のあの少女、水源の村から拐かし姿さえ不明の吸血鬼が潜む地下牢に放置したまま餌食にしたあの少女だった。金髪の魔少女を襲わせたゴーレムが破った牢を迷い出たものを、吐いた血の臭いがここへ呼び寄せたに違いない。あのとき自分がしたことに、まさかこんな形で裏切られるとは! このままでは弟が、ポールが危ない!

「ば、バカな! 離せ、離せぇえっ!」

 だがどれほどあがいても、弱った体を抑え込んだ細腕は微塵も緩みはしなかった。すると奈落の縁でひときわ大きな溶岩の泡がはぜ、周囲に火の粉を振りまいた。それが自分の腹に顔を埋めた小娘の黒髪に散乱し金色の燐光を宿らせた。たちまち魅入られた兄は、やがてためらいがちに呼びかけた。初めて出会ったあの夜のように。

「メ……リー?」

 すると相手がゆっくり顔を上げた。ヨシュアの身が、魂が凍り付いた。一切の表情が削げ落ちた小さな顔。魂の窓であることをやめたなに一つ映さぬ黒い瞳。ただ厭うべき感覚が自分を獲物と認識させることで機械仕掛けさながらに動いているだけの存在。イルジーや自分が未完成の薬を飲ませた全ての村人たちと同じ、動く亡者となり果てた姿。

 そこにはもはや思い出すこともかなわぬ妹の、メリーの面影をあれほどかき立てたものはなに一つ残されていなかった。兄は、ヨシュアは思い知った。邪悪なイルジーが、そして自分が殺したのは体ではなくむしろ魂だったのだと。そして舐め上げるような動きで迫りつつ、顎が外れでもしたかのように細い牙を剥き出す抜け殻のごとき少女の醜悪な顔が、その瞬間啓示にも似たものをもたらした。この顔があれほどメリーの面影を感じさせたのは、その身にメリーの魂が転生していたからではないのかと。だから髪も目も似ぬこんな娘にあれほど心惑わされたのではなかったのかと。

 ならば俺はメリーの魂を砕いたのか? 幼い身で弟を庇いつつ死んだというよるべない魂を、数十年を費やしやっと新たな身に転生を果たした妹を、この手で再び冥府へ叩き落としてしまったのか? 俺がしたのは、できたのは、こんなことでしかなかったのか!

「メリーーーーっ!」

 自分への怒りとも絶望ともつかぬどす黒いものが絶叫と化して迸ったとたん、喉にずぶりと細い牙が突き立てられた。だが次の瞬間、完成した炎の呪文が邪法師としか生き得なかった己自身に炸裂し、やつれ果てたその身を幼さを残した少女もろともあっという間に焼きつくした。やがて洞窟が崩れ始める中、ついに奈落から溢れ出た溶岩が二人の灰も何もかも呑み込みつつ亀裂の走る火の山をどこまでもせり上がっていった。ゴーレムは脚を取られ倒れたところを溶岩に呑まれ、赤子の声で泣き叫ぶものも岩壁を溶かしてなだれ込む灼熱の流れに悲鳴を残してうち黙した。そして崩れゆく岩壁や天井を際限なく溶かし込み還元しつつ、ついに溶岩流は土台を失って崩落する山の頂と入れ替わるように地表に姿を表した。


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 丘に立つ四人の眼前で、炎がそのまま塊になったような溶岩が火の山の頂を呑み込みつつ膨れ上がり、やがて這うような動きで崩落でできた穴の縁を越えると川へ下る傾斜を巨大なスライムのごとく流れ下り始めた。声もなく立ち尽くす白衣の神官の隣で、老いたる修道士が印を切りつつ呟いた。

「噴火だけは免れたか。神よ、我らへのご加護を哀れなオルトの魂にもなにとぞ分かちたまえ……」

「……どうなることかと思いましたが、いかに魔道の術といえど全てを破壊できるわけではなかったようですね」

 ほっとしつつ話しかけた赤毛の若者は、だが剛力の師の厳しい表情に息を呑んだ。そんなアラードにボルドフの太い指が彼方の光景を指し示した。

「あれを見ろ。この地の命運はもはや尽きた」

 その言葉に呼応するように、蒸気が逆流する瀑布のごとく立ち上った。溶岩がついに川に流れ込んだのだ。そして一行は見た。かつて金髪緑目のユーラの民が拓いた清き流れを溶岩がせき止め覆い尽くしてゆくのを。天頂へ昇りゆく太陽に見せつけられた。数多の命を支えてきた川が命脈を断たれ、昏き赤に転じゆく岩に永遠に塗り固められてゆくのを。

「……イルの村へ戻るぞ。彼らはもうあの村で生きてはゆけん。そのことはとにかく伝えねば」

「だが川沿いの道にはもはや戻れぬ。どうすれば……」

 それだけいうのがやっとという風情のグロスに、アルバの指が西を指し示した。

「まずアーレスに戻り馬を用意せねば。そのほうがかえって速いはずじゃ」

 そして一行は崩れ去った火の山に背を向けて、かつてユーラの民が逃げ延びようとして果たせなかった旧街道へ抜ける道を一路西へと辿り始めたのだった。誰一人として南の彼方の小さな丘になど、目を向けることさえないままに。


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 丘の洞の闇の中、身を起こした華奢な少女が目を見開いたまま呆然と虚空を見上げていた。この地へたどり着いたばかりだったあの日のように。

 だがその瞳はみるみる潤み、やがて止めようのない流れが白い頬を伝い始めた。

 リアは覚えていなかった。自分がここへ連れ込まれたときのことを。彼女の意識は火の山の上空を旋回するガルムの背で朝日を浴びた凄まじい苦痛に断たれていたのだったから。最後の記憶は本来の自分を、願いを取り戻したがゆえの惑いに落ちつつあったヨシュアに叫びかけたときのものだった。光に盲い身を焼かれる苦悶の中でそれでも黒き魔獣が洞へ戻ろうとするのを許さずに、あのとき自分は必死で叫んでいたのだった。見失わないでとただそれだけを。そしてずたずたに引き裂かれた意識が暗転しかけた最後の瞬間、彼が心を定めるのを確かに感じた。そして言葉の形になしえなかった別れの思いを自分に寄せてくれたことも。

 だからこそあの絶叫は、昏倒していた自分を叩き起こしたあの断末魔は衝撃的だった。激しい悔恨が、己への怒りが彼が感じた全ての思いの奔流を伴いつつ、巨大な二本の銛のごとくこの魂を直撃したのだ。その苛烈さは灼熱する空の上の自分に届いたあの惜別からは予想もできないものだった。火炎地獄さながらの地の底で彼を待っていた運命の残酷さに、そのあまりの仮借のなさにリアは震撼させられた。

 そして彼女もまた思わずにいられなかった。自分がしたのは、できたのは、こんなことでしかなかったのかと。

 たしかに彼は本来の心を取り戻し、憎悪と呪詛にまみれた黒き魔導師であることをやめた。だがその結果、彼は絶望的な悔恨に捕らえられ己を処断して果ててしまった。死の間際に彼が残した2つの思いのあまりの落差に胸が張り裂けそうだった。明けゆく空に炙られる自分に寄せられた思いを知ればこそ、邪法師のまま死んでほしくないと願ったことがあんな最期に追いやったという自責めいた思いは魔性の身に残ってしまった心を苛むのだった。辛くも身を守れるばかりの小さな闇の中、リアは身を切るような悲嘆に暮れたまま、もう目にすることのできぬ青空の色を残した瞳が流す涙を止めるすべさえ見出せなかった。


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