『人狼』 第2章:大草原

 レドラスとの国境近くの荒野のただ中に、激しく打ち合う音が響いていた。

 激しい気合とともに一閃した褐色の稲妻を、皮一枚ぎりぎりでやりすごした巨体の繰り出す黒い旋風が打ちすえた。木が折れたとは思えない音とともに木刀が砕けた。

 湯気を上げるほどの汗にぐしょ濡れになった赤毛の若者が膝を屈した。衝撃でしびれた両手が木刀の残骸を取り落とした。

「突き技の速さだけはたいしたものだが、後先なしではどうにもならん」ボルドフが黒塗りの木刀を突きつけた。

「おまえの戦い方だと相手を倒せても刺し違えになるだけだぞ。それでは勝ったとはいえん。生き残らねばそこで終わりだ」

 アラードは返事もできず、荒い息をつきながら巨体の剣の師を見上げた。その視線を受けたボルドフの黒い目が細められた。

「忘れられないのか。村で見たことが」

 アラードは答えなかったが、ボルドフは続けた。

「忘れられないのは仕方がないが呑まれるな。心乱れたままではとうてい戦えんぞ」

「私の力が足りないからですか」アラードが呻いた。

「こうして剣を磨けば乱れを克服できるでしょうか」

「力を磨くのが自分への信頼につながれば支えにはなるだろう。だが人間に対する疑念が自分への信頼をゆるがせているのなら、それは間接的なものにすぎん。力とは違う次元の話だ。自分なりに疑念に対する答えを出すしかないだろう」

 ボルドフは木刀を納めた。

「そういえば、あいつもなにやら悩んでいるようだな」

 顔を向けたアラードの視線の先に、羊皮紙の束を睨むグロスの姿があった。

「これが解呪の技の術式だ。吸血鬼の魂を呪縛する不死の呪いを砕くことで消滅させる唯一の呪文を記したものだ」

 グロスにいわれて羊皮紙を覗き込んだが、アラードにはなにが書いてあるのかさえ読み取れなかった。

「暗号だよ。ラーダの教義に鍵をひそめたものだから教義に通じた者でなければ文言がそもそも読み取れない。そのうえもともとの邪法の術式に食い込むように教義にもとづく禁忌の術式が組み込まれている。あたかも術を使う者の心を監視するかのように。そして浄化と鎮魂の祈りで結ばれる」

 グロスの言葉がとぎれた。結びの部分を見つめていた。

「術式を変えるには教義と魔法体系の双方に深く通じた者でなければ手を出せぬ」

「変える? 師父は術式を身につけておられるのでしょう?」

「だが発動できずにいる。自分でもなぜかわからない。いや」

 グロスは嘆息した。

「実のところ私はこの術のあり方が納得できないのだ。この術は術者に無理なことを求めているのではないかと」

 グロスは傍らに立てかけた錫杖に目を向けた。それはアルデガンで彼が仕えた大司教ゴルツの使っていたものだった。ゴルツがアルデガンを守るため命を落としたあと、グロスが師を偲ぶ形見として持ち出してきたのだった。

「むろんゴルツ閣下は術式を身につけ使いこなすことができた。それでもこの技は閣下を苛んだではなかったか。そなたは閣下に同行しその戦いぶりを見たであろう。そうは思わぬか?」

 もちろん憶えていた。忘れられるはずがないものだった。

 アルデガンの洞窟で、ゴルツは二十年前に吸血鬼にさらわれたラルダと対峙した。愛娘は変わり果てていた。己に降りかかった運命の不条理に心歪ませ無残に堕ちていた。不条理を免れる者を許せずわが身と同じ地獄に落ちよと憎み呪うしかないまでに。

 ラルダはその憎悪と呪詛ゆえにリアを牙にかけながらもあえて殺さなかった。生きたまま転化した我が身の苦しみを味わえとの思いゆえ凄まじい血の渇きすらねじ伏せ吸い残したのだ。そして全ての者を同じ牙の災いに引き込まんとしていた。

 ゴルツは壮絶な戦いの末ラルダを滅ぼすしかなかった。しかも神の御許へ還れとの老いた父の願いはもはや娘に届かなかった。全てを呪いつつ彼女は霧散した。その身も魂も無に帰した。

 だから娘を牙にかけた吸血鬼に出会ったとき、ゴルツは憎悪に染められた。その憎しみの激しさは術式に組み込まれた禁忌の枷さえ打ち破り、憎悪の心では発動できないはずの術を暴走させてしまった。呪殺の邪法としての本来の姿をむき出しにした解呪の技は怨敵を滅殺したが、組み込まれた禁忌の術式は教義に背いたゴルツの心の奥底を大きく乱した。

 ゆえにリアがアルデガンに迫る破滅を己が心の命じるまま警告しに現れたとき、ゴルツはもはや正しく術を発動できなかった。彼女の心を感じつつも受け入れることのできぬその心を反映して術はねじれた形で発動した。少女の魂を呪縛する不死の呪いを砕くことができず、ただ不滅の肉体を無意味に苛み切り刻むばかりだったのだ……。

「これでは相手が邪悪で許せない者であればあるほど、この技は使えないとしかいえぬではないか。とても浄化も鎮魂も願う気になれぬ相手なら本来は発動もできない。できたらできたで術者の心が損なわれる。なぜこんな術式になっていると思う?」

 アラードに答えられるはずがなかった。

「……禁忌の術式を外すしかないかもしれぬ……」

 アラードは耳を疑った。「しかし師父! それでは……」

「確かに呪殺の邪法の姿に戻すことになってしまう。だから私も迷っているのだ。もともとの邪法は人間同士の殺し合いの道具として魔道の領域から生まれた。そのままの形ではこの世の災いでしかないものだ。それゆえ過剰に制限を設けた先人たちの恐れもわからぬではない」

 呻くような声だった。その目は古の羊皮紙を凝視していた。

「しかし吸血鬼と化した者はもはや人外の魔性。討つための力は必要だ。アルデガンでのリアは確かに人の心を残していた。だがいつまでもそのままでいられるとそなた断言できるか? すでにあれは牙を血で染めたはず。ラルダやその仇敵のような鎮魂も浄化の祈りも届かぬ邪悪の権化に堕ちぬといえるのか? そもそもリア本人が自らの末路への恐れゆえに己を滅ぼせと願ったのではないか。そなたに託したのではないか」

「師父!」アラードは思わず叫んだ。声に血を吹くような苦痛がにじんだ。グロスがはっと顔を上げた。それがアラードにとってどんな問いかけであるか気づいたらしかった。

 アラードはリアが瀕死となったとき自らの手を切り裂き刃をつたう血を飲ませてしまった。彼女の魂が失われることに耐えられなかったからだが、それはリアが人外の魔物と化すことへの恐怖と表裏一体のものだった。しかもゴルツの死に立ち会ったとき、血溜りからの血臭にリアは渇きに襲われた。必死で抗うその心が屈しようとするさまを、彼は恐怖に見開いた目で見たのだった。それこそ彼女に人間としての己を断念させた最後の打撃となったものだった。

 アラードの心の底に爪あとを刻んだそれらの記憶は安易な楽観を許さないものだった。彼がいまだ正面から向き合えぬものに、グロスの言葉はじかに触れたのだった。

「すまぬ! そういうつもりではなかったんだ!」

 うろたえたような師の声に、アラードはぎこちない笑みを返すのがせいいっぱいだった。

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 レドラス領内に入ってしばらくいくとアラードたちは大草原に出た。それとともに魔物の足跡がたどれなくなった。

「ここからどう行くかだな」

 腕組みをするボルドフにアラードはいった。

「リアは豊かな実りを求めて南下するといっていました。人里もおそらく避けていくはずです」

「大筋はそれでいいだろう。だが私たちは人里にも寄らぬわけにいくまい。水や保存食も要るし情報も欲しい」

 グロスの言葉にボルドフは頷いた。

「そうだな。それに群れからどこにどんな魔物が解放されるかも確かめて、近くに住む者がいるなら警告もしておかねば」

「では私たちは巡礼殿に雇われた護衛二人というわけですね」

「そういうことだ。くれぐれも国境を越えてきたなどと悟られてはならん。無意味な争いは避けねば」

「レドラス領の道はそなただけが頼りだ。よろしく頼む」

 グロスの言葉をアラードは意外に思った。

「隊長はこの地域のご出身だったんですか? 私はアルデガンのご出身とばかり……」

「いった端から。隊長じゃないだろ? 俺は巡礼の護衛だぞ」

 苦笑したボルドフは、遠くを見るような目で語り始めた。

「俺は西部地域の村の出だったんだ。親父が死んで何年かたつと今度はお袋が病気になった。薬代に困っている時に兵士の募集がきた。領主の跡目争いで二人の息子が兵力を増やそうとかき集めていたんだが、むろんそんな事情はどうでもよかった。とにかく金が欲しかったんだ」

「こんな体格だったからむろん村の自警団で剣を振るったことはあった。野盗や敗残兵と戦ったことも一度や二度ではなかった。だからそんなつもりで戦に出た」

 ボルドフは言葉を切った。再び口を開いたとき、声には苦渋の色がにじんでいた。

「だが、戦は予想していたのとは全然違った。自分の故郷や家族を守るのとは。領地の主導権争いだったから勝ち戦のときは村や領民に対する配慮も一応見せたりしたが、負け戦で撤退するときがひどかった。敵の拠点となるのを防ぐために村を焼き払うのが常道だった。野盗よりひどいとしか思えなかった。野盗は生きるために物を奪おうとするが、あれは敵の手に渡すまいという思惑一つで村とそこに住む者の暮らしを根こそぎ破壊することでしかなかったから。レドラス軍の虐殺に比べれば生ぬるいとはいえ、それでも俺には耐えがたかった」

 ボルドフがわざわざ身の上話を始めたのは、自分にこのことを伝えたかったからだとアラードは悟った。若き日の師もまた戦の非道をまのあたりにしたのだと。

「そんなときお袋が死んだという知らせがきた。俺は軍を脱走した。だから村には戻れなかった。行くあてもなくさまよった末に俺はさびれた寺院にたどりついた。忘れられていたその寺院こそラーダ教団の西の拠点の一つだった。そこの術者にアルデガンの話を聞いて、どうせなら人間より魔物相手に戦いたいと思いこのレドラス領を通り抜け北の王国まで旅をしたんだ。今とちょうど反対向きに」

 ボルドフは行く手を指さした。

「ここからしばらくはこのままの大草原だ。ところどころに村が点在しているし、遊牧民たちも家畜と共に旅をしている。彼らに魔物の情報を聞きながらどんどん南下すれば広大な砂漠に出る。そこで西か東かのどちらかに進路を変えるはずだから、どっちに行ったか特に念入りに情報を集める必要があるだろう」

 彼らは旅を続けたが、ボルドフの言葉どおりどこまで行っても浅い緑の海原のように草原は続いていた。国境ははるか彼方へと遠ざかり、アラードを悩ませた地獄の光景の印象もしだいに薄れ始めた。そして初めて見た外界への驚きがあのおぞましい記憶に取ってかわった。草原に暮らす様々な人々との出会いはなにもかもが新鮮だった。水辺にささやかな畑を耕す者、枯野に火を放ち芋などを育てる者、質のいい牧草を求めて羊の群れとともに青草の海原を旅する者。彼らの暮らしぶりに赤毛の若者はことごとく子供のように目をみはった。

 そして、彼らの暮らしがアルデガンを出た魔物たちに乱された形跡はなかった。遊牧民たちが月の光を浴びて南下する黒い影の群れをしばしば目撃していたが、定住する者たちが襲われた例は見つからなかった。それはグロスの言葉があらわにした恐ろしい疑念が、まだ現実のものになっていないことの証だった。

 滅びた村は地続きだったが、もはやはるか背後に遠ざかった。穏やかな旅路が続くうち、アラードの疑念もいつしか安堵の中にまどろみつつあった。


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