『人狼』 第8章:小川のほとり

 村の広場の真ん中から、黒い煙が立ち昇っていた。

 ドーラの村は全滅した。生き残った村人はいなかった。

 温厚な村長、占師として敬われたローザ、母を想い悩んでいたリーザまで。今朝がたこの村を出たときにそれぞれの生を営んでいた村人たちは赤子にいたるまであるいは斬殺され、あるいは炎に巻かれて果てたのだ。

 煙を目で追いながら、グロスはひとり蒼白な顔で祈りを捧げていた。襲いくる人間の恐ろしさへの疑念のただ中で、神への祈りを通じ人間という存在を捉え直そうとして。

 それは彼自身への問いかけとならざるをえなかった。人を守り魔物を倒すために作り出された強大な魔法、その破滅的な威力の呪文を禁忌を冒し人間に向けて使うほかなかった己への。


 意識を取り戻したとき、アラードは見慣れぬ部屋にいた。

 身動きしたとたん激痛が走った。弱々しく呻いた。

「気づいたか」ボルドフの声がした。

 アラードの隣の寝台に巨漢が横になっていた。

「お互いひどいざまだな。特におまえは手遅れ寸前だった」

「……隊長、私は……」

 かすれた声でいいかけたアラードをボルドフは制した。だが、アラードは続けた。そうせずにはいられなかった。

「……どうして、こんなことになるんですか?」

 赤毛の若者は呻いた。

「私はほとんど狂いかけていました。グランと同じように。人はこんなにたやすく堕ちるものなんですか?」

「たやすいわけじゃない。ひどすぎる状況だったんだ。やつらもおまえも。これがほとんどの者にとっての戦の姿なんだ」

「憎みあって、殺しあって、魂をすり切れさせて、互いに堕ちてゆくんですか? 果てしなく繰り返すしかないんですか? われ先に化け物になり相手も引き込むような、こんなことを」

 口を開くだけで激痛が走った。だがアラードは言葉を止められなかった。

「これじゃまるで呪いの連鎖じゃないですか! 吸血鬼とどこが違うんですか! 止めることはできないんですか?」

「戦は不条理だ。平時の常識も感覚も通用しない世界での無残な殺しあいの連鎖だ。簡単には止まらん……」

 ボルドフの口調は苦かった。

「戦の始まりは常に欲望だ。レドラス王家は民族の違いを支配の礎にしてきた。それがノールドに野心を抱いた。だから異民族の虐殺に躊躇などしなかった。

 グランたちは故郷を滅ぼされ肉親を殺された。だからレドラスの者を憎んだ。抑えようもない感情だ。だがそこで復讐に走れば待っているのは互いの憎悪の応酬だ。仕掛けた方は憎悪や狂気と違うもので動いたとしても、そこからあとは不条理の支配により暴走する憎悪、互いをもろとも巻き込んでゆく狂気の渦だ。

 殺しあいの連鎖を避けようとすることは不条理を受入れ耐えることを意味する。苦しみを敵にぶつけることなく己に引き受け、恨みも憎しみも、正しいはずの復讐さえ断念することを。

 もちろん、そんなことができる者はまずいない。だから連鎖は始まり、そして延々と続いてしまう。なんらかの秩序が回復するまで。それも多くが望ましからぬ秩序の回復で」

「それでも私は連鎖を止めます!」

 声に力が入りすぎ、凄まじい激痛にアラードは呻いた。だが、歯を食い縛りつつも彼は続けた。

「きっと不条理に耐えてみせます。あんな呪わしい深淵に互いに堕ちるくらいなら……」

「止められる立場に立てなければ無理だぞ。アラード」

 ボルドフのまなざしには、けれど言葉とは裏腹の感慨が込められていた。

「今のおまえでは、俺たちではなにもできない。そもそも運命の岐路にいないのだから。だが、おまえが本当にその気持ちを持ち続けられるのならば、いつかおまえはそんな機会に巡り会うかもしれん。そのとき決断を下せるかもしれん……」

 深々と響くその声を聞きながらアラードは感じた。かつて師も自分と同じようなことを思ったことがあったのではないかと。

「もうなにも考えるな。今は休め」

 胸のつかえを吐き出せたせいか既に緊張は解けていた。眠りに落ちる寸前、アラードは思った。それが人間の業ならば抗わねばならない、自分はリアを吸血鬼の業に抗い続けるしかない宿命に落としたのだからと。

 けれど悲愴感はなかった。奇妙な安堵に包まれたまま、赤毛の若者の意識は眠りの帳に閉ざされゆくのだった。

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 数日後、三人は村の広場の中央に盛られた塚の前にいた。

「ここに村の者は全員眠っている。ローザも、リーザも」

 祈りを捧げたボルドフがつぶやいた。

「まさか、グランたちも?」

 アラードの問いにグロスがかぶりを振った。

「村に葬るわけにはいかぬだろう? 彼らはここへ来るべき者でなかったのだから。こっちだ」

 彼らは廃墟と化した村を後にした。

 つい先日リーザと歩いたゼリアの街からの道の脇、流れる小川のほとりに小さい塚ができていた。

「せめて流れで狂気や罪の穢れを浄められてほしかったのだ」

 グロスがいった。ボルドフがうなづいた。

 三人は小川のせせらぎを聞きながら祈りを捧げた。

 ややあって、グロスが塚を見つめながらつぶやいた。

「私はまるで自分が化け物のような気がした……」

「師父」アラードが向き直ると、グロスも視線を返した。

「そなたと同じで私も人間と戦ったことはなかった。アルデガンで魔物と戦ったことがあっただけだった。確かな覚悟もできないまま、私は魔物を焼き払う呪文を唱えた。あっという間に彼らは全滅した。恐ろしい破壊力だった……。

 こんなあやふやな心に到底つりあわぬ力が備わっているのだと思い知らされた。アルデガンでは魔物は魔物、人間は人間という当然の前提があった。我らはその前提を疑う必要など感じぬまま巨大な力を行使していたのだ。人間である自分を根拠にして。

 だが私たちは、そんな前提が通用しない混沌の世界に出てきてしまった。剣を振るうだけの人間が村をも滅ぼす怪物になりうる世界に。ならばこの私はゼリアの街さえ一人で滅ぼせるだけの力があるのだと」

「そして、この世界は人間がいつ化け物になってもおかしくない状況にあるのだと思い知った。仮にもアルデガンで戦った仲間がかくも無残に堕ちたのだ。

 今後も私たちは力を使わねばならぬことがあるだろう。人間を相手にせねばならぬこともあるのだろう。ならば」

「私たちも怪物と化す危険のただ中で、それに抗い続ける定めにあるのだと、そうおっしゃるのですね」

 アラードの言葉にグロスはうなづいた。

 恐ろしい話のはずだった。だが、アラードが感じたのはむしろ心強さだった。自分が様々な煩悶や狂気の縁を経てたどりついた考えを師もまた共有していると知ったことで、自分の考えに手ごたえを感じることができたから。のみならず年齢の離れた師との間の絆さえ。

「思えば解呪の技を作り上げた神官たちは、決してアルデガンのような特殊な環境にいたわけではあるまい。先人たちは人間の恐ろしさにじかに触れうる立場にいたはず。だからこそ魔道に由来する禁呪の恐ろしさを過剰に封じようとしたのであろうが、反面それでは対応できない事態があることもわかっていたのではと私は思う。吸血鬼は人が変化したものであり、これほど人間に近い魔物はいない。恐ろしい力と危うい心ということでいえば、この私も同じなのだ。おそらく先人たちもそう感じることがあったと思う」

「グランたちがどれほど堕ちても人間であったように、吸血鬼と化した者も人間として接するべきだといわれるのですね」

「その前提に立ち、解呪の技の術式の意味をもう一度解き直してみようではないか。アラード」

 告げる白衣の神官に、若き剣士は大きくうなづいた。

「私はラルダが襲われたとき恐ろしくて逃げてしまった。あんな魔物を人間と同じとはとうてい思えなかった。アルデガンにいる限り、それは自明だと思えた。だから吸血鬼に変じた者に浄化と鎮魂を捧げようとする術式のありかたが理解できなかった。

 だが、私はいまグランたちの魂に祈ることができる。私自身とかけ離れた存在ではないのだと思えるがゆえに。私は自分の力の恐ろしさを、そして人の心の危うさを身をもって知った。彼らの罪は許しがたいが、そうさせた違いがあまりにも小さなものだと悟られればこそ、祈ることができるのだと思う」

「その身が人間であるかどうかが重要なのではない。降りかかる宿命に抗おうとする者もいれば無残に呑まれる者もいる。それは恐るべき戦いに臨んだ結果の髪一筋の差でしかないと、私もそう思います!」

「小難しい話は終わりか? だったらそろそろいくぞ」

 ボルドフが二人に声をかけた。

「どの道をいくのだ?」グロスがいった。

「道などいけるはずがあるか。ローザの話を聞いたくせに。リアは人里に出る道を避けたはずだといっていただろう? だったら荒野をいったに決まってる」

「砂漠の次は荒野か! 勘弁してくれないか」

「堕ちるかどうかの戦いなどといいながら情けない奴だ。そんな軟弱な肉体にまともな精神が宿るか!」

 二人の師のやりとりにアラードは知らず笑みを浮かべた。浮かべることができたのだった。

 険しくともゆくべき道は定まっているのだ。それにこれはリアが辿った道なのだ。ならば自分がゆけぬはずはなかった。自分が彼女に並び立つためにもゆかねばならぬ道だった。

 不思議と迷いも曇りもない心持ちで、赤毛の若者は荒野へ至る最初の一歩を踏み出した。その足の裏に己を支え揺るがぬ大地を感じつつ。

                                         終



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