『碧い瞳の乙女たち』 第4章:夜明けの平原 後編

 洞穴に運び込んでほどなく旅人の骸はよみがえった。魂を失くしたうつろな目で牙を剥いたその姿は、かつて城塞都市の地下で見た若者と同じ冒涜的な恐ろしさだった。とうに我が身は転化を遂げているのに、人間としての心が受ける衝撃は全く減じていなかった。

 そして、こんな姿に変えたのは自分に他ならなかった。だからこそ、呪文で焼き尽くしたり魔物の餌にしたりせずに、なにがなんでも無傷のまま人間の身に戻して大地に還すと決めていた。

 洞穴を出ようとする旅人に止まるよう念じた。支配の力が発動していることを吸血鬼としての本能は告げていた。
 だが、旅人の動きは鈍くなったものの、じりじりと出口へにじり寄り続けた。至高の吸血鬼の牙を同時に受けたその身ゆえに、自分の力だけでは抑えきれないのだとリアは悟った。

 既に外は太陽が登っていた。このまま外に出せば闇の王の系譜に連なる自分の牙を受け光を浴びずに転化が進んだ旅人の体は、陽光を浴びて崩壊するはずだった。そうなればまだ血を得られず転化を終えていないその身は、もはや復活しないと悟られた。
 リアは旅人の正面に回り込み、その体を抑え込んだ。

 旅人は暴れた。少女の体を伸びた牙が穿ち、鋭い爪が切り裂いた。体に負った傷はたちどころに消えたが、その一撃ごとに罪の意識と我が身の凶々しさが深々と魂に刻まれた。

 だが、リアの中でなにかが変わっていた。それまで運命は自分に降りかかってきたものだった。だからただ苦しみをなすすべもなく心に重ね続けるばかりだった。そして自分の恐ろしい行いも運命に強いられたものとしか捉えられず、外部から襲いかかったあらゆる苦悶に我が身を受け身で晒し続けてきたのだった。
 しかし、もう自分はこうあることを選んだ身だった。一方的に運命が降りかかってきたのではなかった。その自覚ゆえに、ただ我が身にのみ向きがちだった意識が相手に向かう余地が生まれていた。

「私はあなたのことをなにも知らない。名前ひとつ知らない」聞こえることなどないと知りつつ、それでもリアは語りかけるのだった。砕いてしまった魂へ。

「どこからどこへ旅していたのかも知らない。どんな人生を歩んでいたのかも知らない。なにも知らないまま出会ってしまった。そしてこの牙で魂を砕いた。体だけを切り離してしまった」暴れる体を抱きしめる細い両腕に力がこもった。

「だから、せめてこの体は無傷であなたの元へ返すわ。あなたが死んだあの場所で人として眠ることができるように。別の運命を辿ることがないように。誰かに災いをもたらす存在になど決してなることがないように!」

 暴れ続ける骸をひたすら抱きしめながら、無数の牙と爪の傷を避けることなく魂に刻みながら、リアは永遠に続くかと思われる昼と夜の間、殺めた者の魂にただ贖罪の祈りを捧げ続けた。


----------


 月明かりを浴びて穴の中に横たわる旅人の蒼ざめた顔からは、既に吸血鬼の徴が消えていた。その顔を最後に目に焼き付けて、リアは死んだ旅人を丁寧に埋めた。
 丘から見上げた天頂には銀河が見られたが、今夜の光の流れはくすんでいた。東の空には黒い雲が煙っていた。

 白髪の乙女はいっていた。東の国で誰かが吸血鬼の力に手出しをしているかもしれないと。
 我が身の凶々しさを思えばとうてい信じられない思いだった。だがもし本当ならば、それは巨大で永続的な災いになりかねないはずだった。

 確かめなくてはならないとリアは思った。そしてそれは自分でなければならない気がした。黒衣の乙女は人間の心を持った者が世界の命運を変える限りはたとえその身がなんであろうと手出しをする気がないとわかったから。その結果どんな恐ろしい災いに結び付こうとそのまま受け入れるつもりでいると知れたから。
 その上で乙女はいったのだった。人間の心を持った自分が何を思うか見てみたいとも。自分がすることにも干渉はしないだろうと思われた。吸血鬼の理を自らの意志で受け入れなかった自分は乙女の目には人間に近いとみなされているようだった。不思議な誇らしさをリアは感じた。

 ならば自分の目で確かめて、かろうじて人間であり続けるこの心の告げるとおりのことをするしかない。人の世の災いの火種になるかもしれないことならば。

 東へ足を踏み出したリアは背後の気配に声をかけた。

「ついてこなくていいのよ」

「東ノ果テマデ歩ク気カ」ガルムが唸った。
「翼持タズシテドウスル。背ニ乗レ」

 そして彼らの頭上に舞うものがあった。
「残りのものには告げた。この地を守れと」

 はるかに流暢な言葉を発したのは、やはり人の顔を持つ魔の鳥だった。幻惑の魔力を持つゆえに、人間にはしばしば同種の力を持つ人魚と混同される魔物だった。女のような細身の顔の頭部からは虹色の羽毛が背に流れ、痕跡のような爪を備えた細長い翼は群青、体長の半分以上を占める孔雀のような尾羽は金色を主体に玉虫色の紋様がちりばめられていた。

 魔物の群れの中で唯一最初から人間の言葉を話すことのできたものだった。にもかかわらず、リアに近づいたことはなかった。去りはしないが明らかに遠巻きにしていたはずだった。訝しげな視線に妖鳥は答えた。

「その心はこれまであまりに激しい苦痛に軋んでいた。とうてい近づけなかった」

「でも、私のこの心があなたたちまで変えてしまった」呻くリアに妖鳥は返した。

「変じた己を受け入れることを選んだだろう? 我らも同じだ。いささか早かっただけ」

「時間ガナイ。乗レ。夜明ケ前マデニ隠レル場所ヲ見ツケナガラ行クノダカラ」

「人間の目は我が力が惑わす」

 そして少女を乗せた獅子のごとき魔獣ときらびやかな妖鳥は、群雲が銀河を覆い始めた夜空へと翼を広げて舞い上がった。

                                           終


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?