『隻眼の邪法師』 第14章の4

<第14章:僧院にて その4>

 十日と定められた休息の日々は瞬く間に過ぎ、旅立ちを明朝に控えた夜、三人は再びアルバの部屋へ呼ばれた。アラードの助けを借りて病床から出た僧院長は、戸棚の鍵を開け羊皮紙を綴じた書物を机に置いた。
「これが件の魔道書じゃ。ほとんどのページにオルトの書き込みが残っておる。オルトはラーダ教団に伝わる魔術系呪文の原型となる呪文をいくつもこの書の中に見出し、自身の故郷たる西方の古代語が上位魔法の呪語の源流であると結論づけておる。一方、僧侶系呪文はこの東方にこそ起源を持つと。そして解呪の技には東方の上位古代語に加え明らかに未知の言語の痕跡も認められ、もととなった呪殺の邪法が海の彼方よりもたらされたとの教団に伝わる由来を裏付けているとも述べておる。まこと生涯を賭けた研究の成果といわざるをえぬ」

 老いたる修道士はうち黙すと、しばし魔道書を見つめていた。アラードもまた亡きオルトの生涯に思いを馳せながら、学究の徒然としたその面影を瞼に浮かべていた。再び語り始めたアルバの言葉は、そんな赤毛の若者の予想を裏切るものではなかった。
「……それでも記された術の恐ろしさを思えば、世に出さぬよう葬るのが我が務め。そう思い幾度も焼き捨てようとしたが、火に投じることはできなんだ。結局オルトを裏切り破滅させたものと知りながら、ついにわしには……」
 縋るようなまなざしが、三人に向けられた。

「お願いじゃ。この魔道書を託されてはくれまいか」
「これを?」
 やつれた顔が頷いた。
「もとはといえば忌むべき邪法を編み出すための覚え書きだったこの書は、オルトの知識が加わったことで魔法体系に関する知の宝庫と化しておる。解呪の技に関する言及ひとつ取っても必ずやあなたがたの助けになろう。そしてラーダの教えを深く身に刻み尊き使命を果さんとされるあなたがたなら、忌むべき邪法に惑うことなどあるまいと信じることができる。侍祭どもでは役不足としかいえぬし、わしが死んだら棺に入れるよう頼むことも考えはしたが、手違いでも起きては取り返しがつかぬ。必要なだけ学び終え、処分すべき時がくれば焼き捨ててはくれまいか。さすればオルトがここで費やした長き年月も報われようというもの」

「どうする? おまえたち」
 ボルドフの問いにグロスが頷きで答えた。アラードはアルバの手を取った。
「では携えさせていただきます。ここでの全ての教えとともに。尊き教えあればこそ、邪法の封印も保たれるのですから」
「感謝する。哀れなオルトの御霊にかけて」
 病み衰えた僧院長はアラードの手を押し頂いた。窪んだ眼窩の奥には涙が光っていた。


----------


 ついに旅立ちの朝がきた。アルバは杖に縋りながら、それでも僧院の門前まで見送りに出てきた。そして侍祭たちに馬を引いてくるよう命じると、まずボルドフにこういった。
「あなたには本当に世話になった。あなたがおらねば、わしらは到底こうしてこの場におれなんだはずじゃ。なにとぞ旅路の安けきことを」
「あなたの日々にも安寧があらんことを。老師よ」
 アルバは次いでグロスに向き直った。
「その2つの石は常にあなたの来し方と行く手を示すじゃろう。混迷の闇に惑いしあなただからこそ、示せる道も救える者もあるものと信じておりますぞ」
「あなたの導きなくば、私はあのまま内なる迷宮を脱することはかなわなかったろう。感謝の言葉も見つからぬ」
 最後に老いた修道士は、アラードの手を取り語りかけた。
「この短い日々の間に、そなたはわしの空疎とも思えた生を満たしてくれた。道行きはさぞ長かろうが、誓いが果たされることをいつまでも願っておるぞ」
 溢れる感謝と惜別の念を込め、赤毛の若者は肉の削げた老師の手を握り返した。
「ここでの日々なくば、私が新たな旅路に踏み出すことは決してできなかったでしょう。どれほど歳月がかかろうと、必ず悲願を果たしてみせます。そのとき私の心は必ずや、この日この場所へ戻るでしょう」
 アラードには知るすべもなかった。かつてこの東の地で、あの水源の村のはずれの丘で、アルデガンの開祖アールダもまたもう会えぬ恩人に向け、感謝と惜別の念を告げていたのを。それゆえ己が言葉がその遙かな谺にも似たものとなっていたことを。

 時を告げる鐘を合図に三人は馬上の人となり、背後からの風にマントや長衣を翼のようにはためかせつつ馬を進めた。アルバや侍祭たちの手を振る姿は振り返るごとに遠ざかり、ついには白い僧院の姿も見えなくなった。彼らはもう振り返らず、街道の先の遠い丘めざしてひたすら駆け続けたのだった。


----------


 ようやく丘に着いたとき、頭上は星空に転じていた。この地へ来たとき空の高みに魔物の気配を感じたあの野営地は、丘の向こうの川辺だった。坂を下る寸前、アラードはふと来し方へと目を向けた。鳶色の瞳が地平線にまたたく小さな赤い光を捉えた。
「戦星? いや、まさか」
 振り仰いだ天頂高くに赤い星を認め、赤毛の若者は再び視線を東に戻した。だが光はそこにはなかった。そんなはずはと幾度も東と天頂を見やるアラードに、二人の師も馬を寄せた。
「どうした? アラード」
「東に赤い光が見えたのですが、まるで戦星のような……」
「この季節に戦星があんな位置にいるはずがなかろう? ほら、ちゃんと頭上におるではないか」
「ええ、そうなんですが……」
 アラードは腑に落ちない心地で遠く東へ目を凝らしていたが、馬を進め始めた二人の師を追うべくついに西へ馬首を巡らせた。そして西方へと向かう街道を下り始めた三人は、二度とこの地を訪れる定めになかったのだ。

 だから見ることはおろか、想像することさえかなわなかった。自分たちが去って数刻の後、再び地平線に赤い光が現れるとは。明らかにそれは先の位置より南へと移動していた。それは何度も消えては現れるのを繰り返しつつ、まるで下界に堕ちた凶つ星のごとく荒野をさまよい続けるばかりだった。


                                           終


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?