『碧い瞳の乙女たち』 第3章:星明りの平原

「私たちは人間という種族の命運に縛られた者。それも呪縛だと考えるなら、呪縛に陥るのは私たちの宿命かもしれない」

 月が沈んで星々だけが残った天空の下、銀河を見上げながら白髪の乙女がリアにいった。二人は向き合って荒野に座っていた。リアの背後にはガルムが控えていた。

「人間たちが存在している限り私は滅びない。おまえたちは人間だった肉体が魂に食い込んだ不死の魔力によって繋ぎとめられている身だから魔力を砕かれれば滅びるけれど、それ以外の点では私と同じ定めにあるわ。人間が存在している限り私たちの力は増してゆく。けれども人間が滅亡すれば減少に転じる。力が弱まるにつれて私たちはしだいに薄れてゆく。力が尽きれば霧散する。それが私たちの最期よ。解呪されたものが薄れて消滅する過程が長い長い年数をかけて進行するのが人間という種族が滅んだ後に起こること。そしてその年数は力の大きさに、それまで存在した年数に応じて決まる」

「では、古くから存在した者ほど長い間存在し続けることになるの? だったら、もしかして最後に残るのは……」「そうよ」

 天空をまたぐ遥かな流れに視線をゆだねたまま、黒衣の乙女は応えた。背から大地に流れた雪白の髪は地上に映えた銀河の影のようだった。

「最後に滅びるのは私。人間も吸血鬼も共にいなくなった世界を見届けて滅びるのが私の定め」

「……あなたは恐ろしくないの? たった一人になって滅びると定められた運命が」

 銀河の流れを辿っていた視線が少女の顔に移された。

「おまえは本当に変わっているわ。今度は私のことを気にかけるつもり? それにいくら人間でも自分がいつか死ぬことくらいは知っているはずよ。それとも知らなかったの?」

「それは知っていたわ。けれどいつ、どんなふうに死ぬかなんてわからないから」

「ならば私も同じことよ。私もいつ、どんな形で人間という種族が滅びるかなんてわからないのだから。
 おまえを牙にかけた者は、すべての人間を呪うつもりだった。あるいはたった数年ほどで人間は滅びていたかもしれなかった。そうなるかならないかがどれほど小さな違いだったか、おまえは誰よりもよく知っているはず。おまえはその場に立ち会った者の一人だったのだから。あの時おまえが牙にかけた者の気をそらせたために、人間は憎悪の牙の滅びを免れたも同然なのだから。
 いつ、どんなふうに死ぬか、滅びるか。そんなことがわかる者などどこにもいないわ」

「でも私でさえ彼女と同じようなことができるのだから、あなたなら世界をいつでも滅ぼすことができるじゃない。自分の定めを変えたければ!」

「そんなことを考えるのは人間だけよ。自分の意志や力で世界を変えようと思うのは。まして世界を自分の運命と道連れになどと考えたりするのは。私は自分の意志で世界の歩みを変えようとは思わない。理に在る者は決してそんなことを考えたりしない」

 白髪の乙女がまっすぐリアの目をみつめた。

「おまえも考えたことがあるの? 苦しみからの救いを願い続けたその果てに」

「……怖いのよ。いつか考えてしまうのではないかと。私を牙にかけた者がそうだったのを忘れられるはずがないから。その身の滅びを望んでかなえられず苦悶に心歪ませたその果てに、全てを滅ぼそうと呪うまでに堕ちた魂を見てしまったのだから」

 リアは呻いた。碧い瞳から思わず目をそらした。

「だから私は怖いのよ。自分が歪んでしまうのが。だから滅びてしまいたいと……」

「でも自分で自分を滅ぼすことはできない。ならば人間を滅ぼすことで終末を早めるしかないと……。何度もそんな者を見たことがあるわ。でもみんな吸い残された者だった。人間の心を残したまま魂の牢獄に繋がれた者ばかりだった」

 白髪の乙女は再び星空を見上げた。

「おまえが城塞都市の地下で出会った異世界の魔物もいっていたでしょう。人間は種族の運命も世界の命運も変えうる存在だと。世界を意識し働きかけようとするその性質こそが、世界の命運を左右する種族であるための条件なのかもしれない。
 けれど、人間は世界と自分の大きさを見誤ることがある存在のようにも思える。自分たちのために世界があるように感じたり、わが身を世界と混同する者さえいるような気がする。人間が見る世界の姿はしょせん人間にとってのものでしかないのに。自分の目から見ただけの限定された姿でしかないのに」

「……私が見る世界も人間にとっての世界でしかないと?」

「おまえが人間だった自分にそうして呪縛されている限り」

 リアに応えた乙女のまなざしは星空から北の地平線の彼方へ、最果ての森へ向けられた。

「おまえはあの者が森の魔力に囚われたとき叫んだ。森に従ってはだめだと、それでは世界が滅んでしまうと。でもあの魔の森が世界を覆うことは人間にとっての世界の終わりでしかないわ」

 訝しげに向けられたリアの視線に碧い瞳が応じた。湖面の下の深淵に呑み込まれるような錯覚に、少女は身を震わせた。

「あの森がこの世界を覆ってしまえば確かに人間は滅亡するしかない。そうなれば私たちも滅びゆく。最後に私もいなくなる。
 けれど、その時はあの森もまた変わらざるをえない。私たちがいなくなれば森は魔性を維持できないのだから。森は本来の姿を取り戻す。人間以外の生き物たちのあり方もあるべき姿に戻る。そして長い時の果てには新たな種族たちも誕生する。
 やがてはその中からもまた、この世界の命運を変えうる種族が現れるわ。その時またその種族にも、一人の白い姿の者が現れるのよ。姿を写した種族に縛られつつ、その命運を見届ける定めを負う者が。
 そうしてこの世界は存在し続ける。世界そのものの寿命が尽きるまで。いかなる命も生み出すことのない涸れた骸になり果てるまで」

「……わからない。私には……」

「仕方ないわ。確かに一つの種族の命運など超えた話だから」

 黒衣の乙女の瞳の深淵は、再び静かな水面に覆われた。

「けれど、それは世界の命運を変える力を持たぬもののもたらす滅びに限った話よ。世界の寿命を脅かさず種族の滅びに留まれるのは。人間がもたらす滅びは世界そのものを傷つけてしまう危険を伴う。あの魔の森の中には古の国々の廃墟が数多く眠っているけれど、その中には巨大な魔法の力を栄えさせた上古の国々の遺跡もいくつか埋もれているのよ。おまえの住んでいた城塞都市を破壊したあの火の玉など子供の遊びでしかないほどの。
 それらは互いに争いあい滅ぼしあったもの。あの森さえ大半が焼き尽くされ、人間ばかりか多くのものどもも灰に帰し、大陸の形さえ変わるほどの破壊をもたらした戦いによって。破滅の到来よりも人間の力が削がれるのが僅かに早かったせいで、からくも収まった争いの痕跡よ」

「そんなことが……」

「そうよ。そして人間たちは力だけでなく起こったことの正しい記憶も失っているわ。伝説の彼方の上古の世界の出来事として、ほんの断片だけを他人事のように語り継いでいるだけ」

 碧い瞳に不思議な感慨が浮かんでいた。

「私たちは一人の人間と比べれば絶対的な力を持つ。けれど理の中に留まる限り、私たちには世界の命運を変える力はない。ただ渇きを覚えたときに人間を牙にかける以外に何も望みはしないのだから。それで人間が滅びたとしても、それは人間という種族の滅びに留まるものでしかない。
 けれど人間の力がひとたび世界を破壊し始めたなら、私たちの力はもう及ばない。それは次元の違う力、種族が振るう力なのだから。止めようと思えばただ人間という種族を滅ぼすことでしか止められない。それはそのまま私たちの終末の到来となる。
 あの廃墟の魔法王国が戦ったとき私は思い知らされた。私たちは人間という種族に縛られた無力な存在でしかないと。あくまで命運を握るのは人間であって、私たちではないのだと」

「……吸血鬼は世界を滅ぼせないけれど、人間は世界を滅ぼせるのだと。だから人間のほうが恐ろしいといいたいの?」

「そして人間の心のまま転化してしまった者は両方の力を振るうことさえできる。魔法王国の大戦よりさらに昔、一人の王が自ら望んで生きたまま転化した。この世界に覇を唱えるには足りぬ己の寿命を超えるため、わざわざ編み出した魔法で拘束した吸血鬼の牙によって。
 けれど王は拘束した者の特質を受け継ぎ日の光に耐えられぬ身となった。王にとって、それは世界の半分に手が及ばないことを意味した。すると王は人間をことごとく己の闇の血族に引き込み始めた。そして昼の世界に属するあらゆるものを片端から魔法の力で滅ぼそうとした。王の力が世界を覆い尽くそうとしたとき、あの解呪の技が編み出され、ようやく王は滅びた。でも王の手で転化させられた者たちを一掃するのは、人間たちがいくら世代を費やしてももう無理だった。あまりにも数が多すぎたから。
 おまえも含めたこの世の吸血鬼のほとんどが日の光に苦しむのもその名残よ。おまえはあの狂気の王の牙の呪いを遠くその身に受けているのよ。たった一人の人間が、狂える欲望の赴くままに私たちの力を求め、それを振るったばかりに」

「一人の心のあり方が人間や吸血鬼や世界の命運さえも歪めたというの? 今の私のこの運命にまで影を落としていると……」

 白髪の乙女は立ち上がった。蒼白となったリアを見つめつつ。

「私は人間が左右する世界の歩みを変えるつもりはない。たとえそれが狂気によるものであっても。それに転化を遂げた者はもう私にも滅ぼせない。でもあのとき、私は多くの転化させられた者たちに出会った。どこへ行っても出会った。ただ苦しめる意図ゆえにわざと吸い残され、おまえのような渇きと苦悩の狭間に落とされた不自然な者たちもあまりにも多かったから。そして地に満ちあふれた苦悶と怨嗟の呻きをさすがに放っておけなかった」

「……それで、あなたはどうしたの? その人たちを」
 リアの声はかすれていた。

「選ばせたわ。このまま人間の心を持ち続けるか、人間であった記憶や意識を捨て去るかを」

「……まさか、まさかそれは!」

「そうよ。おまえは自分を牙にかけた者に魂を砕かれかけたことがあったはず。あれは支配の魔力によるものだから、普通は直接牙にかけた相手に対してのみ可能なこと。けれど私は、全ての者に支配の魔力を振るうことができるから」

 目の前に立つ黒衣の乙女の様子に変化はなかった。静かな瞳に憐れみを秘めたままだった。にもかかわらず、リアの畏怖の念はその一瞬まぎれもない恐怖に姿を変えた。

「あなたは……、あなたはその人たちの魂を砕いたの?」

「死んで転化した者と同じ状態に戻したわ。理の内に留まる存在へと。誰もがそれを望んだから」


 慈悲によってなされたことを疑ったわけでは決してなかった。自分が乙女と同じ立場だったとしても同じことをしたと思えた。なによりそれは自分自身の心のどこかにさえも、かなわぬ望みとして確かに存在するもののはずだった。

 にもかかわらず、リアは戦慄した。実際にその力を持つ者と向きあったことで実感させられたゆえの戦慄だった。それはやはり自我の、魂の死に他ならないことなのだと。


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