『狭間の沼地にて』 第5章

<第5章:日没の家>

 バドルがラダンの馬に乗って去るのを見送ったあとも、ミランは窓辺から離れられなかった。昨夜この同じ窓から見た光景は、朝日に輝く景色の中になんの痕跡も留めていなかった。だが白い青年の赤い瞳には、冴えた月の光を浴びて立っていた乙女の姿が焼きついて離れなかった。

 かの黄金の髪をきらめかせた乙女の緑の瞳には、しかし翳りがさしていた。赤い唇が紡いだのは聞いたこともない言葉だった。言い伝えによれば闇姫がいにしえの言葉で告げるのは滅びの宣告に他ならず、それを耳にしたものは生き血を吸われる定めのはずだった。だが、相手はまったく襲いかかるそぶりを見せることがなかった。ためらいがちでありながら、それでいてなにごとかを訴えずにいられない。そんな様子のまま意味の取れない言葉を、ひたすら細い声で語りかけ続けた。やがて彼女は空を見上げた。そして何度もこちらを振り返りながら西へ、森のほうへと去っていったのだった。

 自分が生まれたときに占師が出した卦のことはもちろんミラン自身も知っていた。闇の森に棲む闇姫と係りを持つと予言されたことを片時も忘れたことはなかった。
 だが、振り返ってみれば、その係りがどんなものなのかを深く考えたことはなかったような気がした。出会えば殺されるのに違いないとただ思っていただけだった。相手は千年もの時を闇の森とともに過ごしてきた吸血鬼。それ以外の考えが浮かぶ余地などあるはずもなかったのだから。

 だが実際の出会いは、そんな単純な予想に収まらないものだった。そしてそれは、なぜかミランに自身の回想を促したのだった。


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 村の誰とも違う白い髪や赤い瞳に逃れようもなく刻印された呪い。薬師だった母は、人々から追われるように住みついたこの家で自分の知識と技を我が子にたたき込んだ。立派な薬師になるんだ、誰にも負けない薬師に。そうすれば皆も受け入れてくれる、村に戻れる、こんな沼と荒野と森の影に脅えて暮らさずにすむようになるといいながら。それを疑うことなど少年にできるはずもなく、ミランは常軌を逸した母の教えに必死でついていくばかりだった。

 だが、ことは母の願いどおりにはいかなかった。患者や身内の者たちはミランに診立てや薬の調合をさせるどころか、同じ部屋にいることさえ許さなかった。一縷の望みを絶たれた母は絶望のあまり精神の平衡を失い、森に最も近いこの沼地に見捨てられて暮らす恐怖に呑まれてしまった。昼夜を問わずうわごとをつぶやきながら辺りをさまようようになり、とうとう疲れ果てたミランが眠っていた間に姿が見えなくなってしまった。ただ村に近い沼の東の岸に、履いていたサンダルの片方が引っ掛かっているのが見つかっただけだった。

 皮肉なことに、母がいなくなってようやく村人たちはミランの薬を求めにくるようになった。もちろんミランにも、母がいなくなったから人々が仕方なくそうするようになっただけだということはわかっていた。でも彼はそれを憤るどころかおかしいと思うことさえなかった。母はミランの呪いを恐れていた。その点では村人たちとなんら変わらなかった。だからミランも自分の呪いを疑うことを知らなかった。村人たちからどんな仕打ちを受けても仕方がないと思っていただけだった。

 そんなある日、胸を病んだ妻を伴いやってきた男がいた。子供も二人連れていた。黒い髪と目がよく似た兄弟で、兄はミランと同じくらいの年に見えた。彼は木刀を持っていた。そして母を守るように後ろに立ち、ミランの様子を緊張した面持ちで睨んでいた。弟はそんな兄の背後から、脅えたようにミランをうかがっていた。
 しかしミランの薬が母親の発作を鎮めたのを見て、兄の様子が変わった。敵意を帯びた警戒が賞賛と感謝にとってかわり、彼はばつの悪そうな顔で木刀を引っ込めた。薬の代償に川魚の薫製と固いパンを置いた父母がそそくさと立ち去っても、兄はその場に残っていた。早く行こうとせがむ弟をしがみつかせたまま、彼はミランをまっすぐ見つめて礼を述べ両親の非礼をわびた。それがミランとガドルの、そしてバドルとの出会いだった。彼らはその後も母の薬を受け取りに、しばしばこの家を訪れるようになったのだった。

 ガドルとの出会いによって、ミランは母が何を願っていたのか初めて実感することができた。目が赤いだけじゃないかとガドルはいった。実の母さえ克服できなかった忌まわしい徴への恐怖を同い年の少年はものともしなかった。
 母親も、そしてミラン自身さえ持つことができなかった忌まれた身へのその肯定は、ミランを生まれ変わらせた。誰にも受け入れられないことがもたらす身の置きどころのない感じ、生まれてこなくてよかったのにとの人々のまなざしがもたらす呪縛めいた思い。それが破れて初めて、白き忌み子は生きる悦びにおずおずと触れることができたのだった。それまでの自分は生きていたとはいえなかった、生きながら死んでいたも同然だったと実感したのだった。

 それはなにかに似ていた。まるでそれは、そう……。


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「開けろ、開けろ!」

 突然の声と戸を乱暴に叩く音に、椅子にかけたまま眠っていたミランは叩き起こされた。もう夕刻だった。西日があたりを朱に染めていた。
 扉を開けるとラダンを先頭に数人の男たちが意識のない少年を運び込んできた

「バドル!」
「敵の計略にかかった。毒矢だ」

 駆け寄ったミランにラダンがいった。だが少年を一目見るなりミランは顔色を変えた。傷口は毒血を抜いて縛ってあった。だがそれ以上の手当がなんらほどこされていないまま、傷口にこびりついた血がすっかり乾いていた。これほどの容体でありながら、バドルが応急措置をほどこされただけで放置されていたのは明らかだった。

「この傷の様子、半日はたっていますね。なぜこんなに遅くまで連れてこなかったんです!」
「親父も、村長も殺されたんだ。だからミロワにまかせておいたんだ」
「あの人の手に負えないことくらい……」

 ミランは呻いた。歯噛みする思いだった。ミロワの腕では応急措置がやっとであることなどわかっていたはずなのに、明らかに彼らは手遅れになるのが目前になるまでここへくる決心を固められなかったのだ。ルダンなら迷わず下せたであろう決断を、彼らは下せなかったに違いなかった。ガドルと仲間たちがいなくなったことで、もはや自分に好意をよせるどころかあえて接触しようとの勇気を振るい起こしてくれる者さえなくなった。己が孤立の深さを見せつけられた思いに打ちのめされながらも、そそくさと帰ろうとするラダンたちの背にミランは必死に呼びかけた。

「この毒を消すには荒野に生える薬草がいります。もう日が暮れる。手伝ってください!」
「お、おれたちは村を守らなけりゃなんねえ! 親父もバドルもいないんだぞ!」
「てめえでなんとかしろ! 薬師だろ!」
「森のそばで日が落ちちまう。そ、そんなとこに行けるか!」

 口々にわめきながら、ラダンたちは走り去ってしまった。

 ミランは唇を噛んだ。このままではバドルは朝まで持たない。おそらく夜半が峠。なにがなんでも薬草を取って戻るしかない。闇姫が森から出てこないうちに!
 悲愴な決意にまなじりを吊り上げたミランが走り出たとたん、太陽がついに地平線にわだかまる森のかなたに没した。


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