いくつものちいさな死の先で

 
これは、7月22日の日本哲学者・宮野真生子先生の訃報に直面して書いた「宮野真生子先生の訃報によせて」の続編、いわば新作であり、極めて個人的なものであることを理解していただいたうえで読んで欲しい。
 
 
また、この文章を読むにあたり、ひとつの結論を先に述べておきたい。
 
わたしは、宮野先生の同僚である小笠原史樹先生と、平井靖史先生、ふたりの先生のことをとてもとても好いている。
 
これは、極めて個人的であり、故人ではなくふたりの先生へ向けたラブレターであることを、どうか、宮野先生にも分かってほしい。
 
 

 
 
「まだ話していない先生の話を聞かせてよ」と言われた。
しかし、わたしは答えることができない。繰り返し、文章や記事で言ったように、本当に、思い出せないのだ。
 
思い出せる限りのことを、あの文章に込めた。
4年もご指導いただき、卒業してからもたびたび、交流をもっていたのだから、もっといろんな面を知っていることだろうと思われたに違いない。
わたしもそう思う。
なんとなく頭の中には「たくさんの時間を過ごした、いろんなことがあった」という思いがふわふわと漂っているのに、まるでそれが靄であるかのように、具体的なエピソードというのがそれ以上浮かびあがってはきてくれなかった。
 
大学3年のときのクライマックスシリーズ、阪神とカープが2位と3位で甲子園で試合をしたことーーわたしは阪神ファンで、宮野先生がカープファンだった。ーー、おかざき真理の「&」について感想を言い合ったこと、進学の相談をしたこと、講義の終わりに恋人を紹介したこと、ーー事実としての出来事はかろうじてあげられるが、どんなことが語られ・わたしがどう思ったかが、分からない。
 
 
どうしてだろうか。
 
わたしは、宮野先生との間に、大したものを積み上げられたわけではないのかもしれない。
 
 
その一方で、あまりにはっきりとした新しい感情というものを手にしていた。
宮野先生に対しての気持ちは、宮野先生を介した他人に向けられて、それは「共感」や「感謝」といった類のものではなかった。明らかな「羨望」であり「嫉妬」であった。
 
このような場面に立たされたとき、ーーーそう多くはないけれどーーーそぐわない感情に思われた。
しかし、しっかりと、朧げである記憶よりもはるかに鮮明に、どろっとした他者への敵意にもにた感情が胸に蔦を張るように広がっていた。胸やけをおこしそうなまがまがしいものである。
 
 
彼らが語る宮野先生のことを知らない。
彼らが過ごした時間のことを知らない。
 
42年の人生である。
そのうち、そばですごしたのはたった4年。知っていた時間にしても、たったの8年。
 
わたしが知りえたものなどほんの一部であるということは当然であるのに、はじめて恋を知って戸惑う少女のこころのように、わたしは嫉妬を持て余していた。
 
先生の病室で支えていた先生方に、先生と名前のつかない関係となり共著を完成させた彼女に、
本来なら「わたしが知っている宮野先生は、」と、語り広めるべきところ、わたしは自分が見た宮野真生子の側面を喉の奥に飲み込んだ。
 
 
9月21日、約2か月ぶりに、葬儀場ではじめて顔を合わせて、わたしのこころを尖らした方たちと再会した。
福岡大学での「宮野真生子先生のご業績を語る会」である。
 
僭越ながら、卒業生代表として登壇を許されたわたしは、葬儀の3日後に書き上げた回顧録を再編集して、集まった在校生・卒業生・同僚の先生方・全国からいらっしゃった哲学研究者のみなさんの前で「先生として」の宮野先生について話した。
 
 
多くの先生方が「素晴らしいスピーチだった」と声をかけてくださった。
そのなかで、わたしの文章を19歳の頃から読んできた小笠原先生だけが、「よかったよ。そのうえで言うけれど、プロのライターである君の新作が聞きたかった(読みたかった)。期待に応えるべきだった」と言われた。
 
その言葉は、一見きつい批評のように思われるかもしれないが、その裏に大きな愛を感じてわたしは思わず笑ってしまった。わたしが書いたレポートに5点とつけていた先生が、わたしの書くものを読みたいとせがんだのである。こんなに嬉しいことはない。
 
 
再編集した文章をスピーチに用いたのは理由があった。わたしが個人的に気持ちを整理するために書いた回顧録であるから、もちろん会場にいる人が読んでくれているとは限らない。
 
わたしが荒ぶる気持ちをぶつけて書いたものだった。それを伝えるのが一番リアルであるように思われたからだ。
  
 
しかし、さらに素直になるとしたら、正直、任された15分のスピーチで話す素材がもう手元に残っていなかった。本当に、もうこれ以上が見当たらないのだ。靄をじっと見つめてみても、全く浮かび上がる気がしない。
 
 
会や、その後の打ち上げをとおして、たくさんの人が宮野先生への慈しみを込めて話をするのを聞きながら、わたしの中にさらにさらに居心地の悪い気持ちが募っていった。
 
 
「わたしは8年もいたのに」「わたしは宮野先生のなにを見ていたんだろう」「先生はわたしのことを覚えていてくれたのかな」「葬儀の場に呼ばれたのは、わたしで適切だったんだろうか……」
 
 
 
 
「ご業績を語る会」は、ある宮野先生に近しい先生が、「あれ以上のものはあり得ない」と絶賛するほどの素晴らしいものだった。
 
 
わたしが先生に対しての気持ちが揺らぐ他方で、一方的に幼稚な拗ねるような気持ちを押し付けていた先生方と、面と向かって言葉を交わした。
 
二次会で訪れた居酒屋で、先生方はとても熱心に"わたしの"話を聞き、対等に意見を交わしてくれた。「宮野先生と仕事がしたかった」というわたしのために間接的にそれが叶うよう、仕事の依頼までいただいた。もう一瞬で大好きになった。完敗だった。
 
 
 
嵐が近づく六本松の町で、深夜2時半、3本の傘に5人ではいって歩いた。とても誇らしげに、口々に宮野先生のことを語る彼らは、大学生のようにお酒にあおられ陽気に笑っていた。傘でかばいきれなかった肩たちが、つぎつぎと雨に濡れてジャケットの色の明度を落としていった。暗く、べっとりと、しかし彼らは楽しげに笑った。
 
 
 
翌日、今度は九州産業大学で、宮野先生が藤田先生と一緒に2か月に一度のペースで開催していた合同ゼミと、それに合わせて「宮野先生の思い出を語る会」を開催した。
 
 
九州産業大学の在校生・卒業生はもちろんのこと、佐賀大学、熊本大学、鹿児島大学からも駆けつけた人があり、いつもより大きな教室での開催であったにもかかわらず、席が足りずにあぶれた人のための椅子が教室の後ろにずらりと並べられた。
 
 
 
佐藤実先生と小笠原先生による「淫蕩」に関しての研究発表。
そして「思い出を語る会」ではたくさんの生徒が、宮野先生と会った回数に関係なく、彼女の印象や思い出や受け取り・自分のなかで芽吹いているものについて話した。
 
 
台風の影響で、2時間はやく閉会となる予定であったが、あまりの盛況に、結局当初の予定通りの17時に終わり、そのまま30人弱で打ち上げ会場に移動していった。
 
 
「まだ話していない先生の話を聞かせてよ」と言われた。
わたしは小笠原先生の顔をちらりと見、困惑が表情にうつってしまわないように、「んー」と考えるふりをしながらカルピスサワーをゆっくりと口に運んだ。考えても、なにも言葉が続かないことはわたしが一番知っていた。
 
 
「先生が、先に言ってくださいよ~」
困ったときの好手である。"先生"を立てるフリして、わたしは答えが迷子になった問いからさらりと逃げた。
 
「先生が知っている宮野先生の一面ってなんですか?新しい先生を見たな、とかって思った瞬間、教えてください」
「…今日、」
しばらく考えたあとで、先生は口を開いた。
「ある学生さんが、宮野先生は"明るい哲学"だったと言っていたけれど、わたしから見たら宮野さんは、暗いところを出発点としているから、それは意外な一面だったかな」
 
なるほど。確かに。
先生の意見にわたしは自然とうなずいた。口々に宮野先生のことが語られたこの2日間で、多くが「明るい」や「楽しい」というものだった。
わたしの中にもそのような印象は残っているが、それと等しく「厳しさ」も「さびしさ」もあったように思う。あまり慣れ合わず、自分のルールの上で生き、そのためにどこか距離をとるようなところもあった。
 
ほかの先生と違って、砕け切ることのない空気を纏って。
 
 
ひとしきりお酒とご飯を楽しんだあと、時間の関係で会では話すことができなかった人が次々とみんなの前に立ち、宮野先生への想いを語った。
 
ある人は先生からのインスピレーションを、ある人は先生からの救いを、ある人は先生の学問への命がけの姿勢を。
 
 
 
わたしは、それを聞きながら、ふと、サンタクロースのことを考えていた。
 
 
 
大学4年生の12月24日。
わたしは高校生ぶりに糸と針を手に、100円ショップで購入したフェルトをちくちくと縫っていた。
 
時刻はすでにサンタクロースが世界中の子供たちの煙突へ到着しそうな頃。わたしの恋人は、わたしの手作りのディナーをデザートまできれいに食べて、お腹いっぱいになり隣ですやすやと寝息を立てていた。
 
切り取られたフェルトの色は、赤と白。どこまでいっても丸い布を糸でつなぎ合わせると、それは靴下になる。形はちょっと不格好だけど、とにかく靴下になる。
 
それを3つ作った。
ひとつには、カピバラのぬいぐるみを。ひとつには、小さなバイク型のえんぴつ削りを。ひとつには、お酒のおつまみになる缶詰を。
 
 
そして、利き手ではない左手で書いた手紙を書いてーーーもちろんそれは、かろうじて読めるほど字が崩れていた。ーーーちいさな贈り物とともに一緒にいれた。
 
 
25日の朝。それぞれを、小笠原先生と、平井先生と、宮野先生の研究室のドアノブにかけていった。
たぶん、まだ、彼らはサンタクロースが誰だったか知らない。
 
 
 
唐突に思い出した。「宮野先生はお酒が大好きだったから、わたしはおつまみを用意したんだ」と、唐突に思い出した。
7月25日以降、いくら思い起こそうとしても取り出せなかった、わたししか知らない宮野先生との思い出を、ひとつ取り戻せた。
 
 
みんなの前では、研究を共にしていた先生が、宮野先生への愛ある暴言をこぼしていた。
 
 
わたしの隣には、小笠原先生が座っていた。
小笠原先生は、この2日間で、宮野先生の哲学に関してと、トマス・アクィナスにおける淫蕩についての研究発表をこなしていた。それは、宮野先生に対しての先生なりの恩返し、だったと思う。だけど、やったのは研究発表であり、ほかの人がしているような小笠原先生から見た宮野先生の姿を語るという私的なものではなかった。
 
 
すこし顔を上げると、テーブルのむこうのカウンターには平井先生が座っていた。
合同ゼミは、藤田先生と宮野先生が中心となって「恋愛・結婚」を語るものであったが、そこには常に見届け人として平井先生がい続けた。藤田先生の言葉を使うのであれば、「3人でつくってきた」のが合同ゼミだった。
今日、「思い出を語る会」で藤田先生に登壇を促された平井先生は、顔を手で覆って頭を振った。わたしはそれを、一番後ろの席から背中だけ眺めていた。
 
 
先生じゃなく、「小笠原さん」と「平井さん」は沈黙したまま、じっと他人の宮野先生を聞いていた。
 
 
 
気付いた。
どうして宮野先生との思い出がうまく思い出せなかったのか。
どうしてあの回顧録が、小笠原先生に「いつも君が書くものと違って緊張が満ちている」と評されたのか。
どうして病床に臥せっていた宮野先生への労いの言葉をメールで送ることができなかったのか。
 
 
 
 
わたし、きっと、宮野先生が苦手だった。
 
わたしはそもそも女の人が苦手だ。女友達も少ない。
宮野先生は、きれいで、聡明で、憧れだった。自分のコンプレックスをひっくり返したような女性だった。
先生はとても開けた方だったのに、超えられない壁に怯んで、きっとわたしから線を引いてしまっていた。
 
わたしの中に植え付けられた女性軽視の黴が、素晴らしい女性と並ぶことへの萎縮を強いていた。だからいつも、先生の前だと緊張していた。
 
男性研究者と対等に渡り合い、いつも華やかな衣装に身を包み、ピンヒールや華奢なパンプスで颯爽と歩く。
先生は、かっこいい。だから苦手で堪らなかった。宮野先生への印象が、「明るく楽しい」というものとして強調されて残っていないのも、きっとこのせいだった。
 
 
 
なのに、なぜ、あんなに宮野先生を追っかけてゼミに授業にと出席していたのか。
 
それは、宮野先生の研究分野がわたしの関心を寄せるところに一番近かったというのが理由のひとつであることは確かだ。
 
それと同じくらい、小笠原先生と平井先生の、両先生のことが好きだったことも大きな理由であったのだ。
 
もっと言うなら、わたしは、宮野先生と3人で過ごす小笠原先生と平井先生が、大好きで大好きでたまらなかったのだ。
 
 
3人が一緒にいることが好きだったから、3人それぞれとの関係が欲しかった。
 
 
仲が良くて、日ごろから遊びに出掛けられた小笠原先生と平井先生と違って、苦手意識を抱いていた宮野先生に対して、わたしは学問を頼りに関係を構築しようとしたのかもしれない。
 
 
 
3人に一緒に贈ったクリスマスプレゼント、3人にそれぞれ贈った生徒のメッセージを集めた色紙、3人それぞれに贈った卒業に際したお礼の品。生徒を忘れて、3人だけが同じ土俵で意見を交わし合っていた議論の場。3人それぞれのゼミ合宿。小笠原先生はお酒と世界平和と、平井先生はプールと西瓜と、宮野先生は哲学と恋バナと。
 
 
なんで忘れていたんだろう、というような思い出が、その隣に小笠原先生と平井先生を並べることで驚くほどくっきりと浮かびあがった。
 
 
 
ずっと胸の内でぐるぐると出口なくさまよっていた問いへの答えが出た。
それと同時に、あまりの悲しみに、顔を覆って泣いた。わたしは、気づいてしまった。
 
 
宮野先生が死んでしまった。
それとともに、わたしが大好きだった宮野先生と一緒にいる小笠原先生と、宮野先生と一緒にいる平井先生も、永遠に失われてしまったのだ。
 
 
死、というのは、人がひとりこの世からいなくなるっていうだけじゃない。
その人と触れ合った人々のなかから、その人に見せていた一面が消えてなくなる。ちいさな死が、いくつものちいさな死が、同時に引き起こされるのだ。
 
 
 
宮野先生や、今日のシンポジウムに関してや、いつものように哲学的な問いに関して、酒を交えて熱量たっぷりに語り合い、笑い合う、ここにいる30人弱の人間それぞれが、宮野先生とともに、その一部を"死"んでしまったのだ。
 
 
 
涙が止まらなかった。腹の底からせりあがる震えが、肩と指先に伝線していった。申し訳ないけれど、襲い来る悲しみにじっと耐えることに精いっぱいで、だれがスピーチをしていたか後半は覚えていない。
あのときのわたしは、宮野先生じゃなく、小笠原先生と平井先生のために泣いていた。
 
そして、同等で、刺激的で、かけがえのない関係性にある3人を眺め、憧れ、その後を楽しそうににこにこしてついて回っていたあの頃のわたしが死んでしまったことに泣いていた。
 
 
先生方は、冗談めかしてこんなことを言い合っていた。
「いま、わたしが死んでも、こんなに素敵な場は設けられないよ」と。 
 
それは、そのとおりで、そのとおりじゃない。
宮野先生の死とともに、失われたみんなの一部の素晴らしさ/失うことのあまりの惜しさに、きっとみんなが引き寄せられるように集まったのだと思う。
 
あの場は、宮野先生のためだけじゃなく、ひとりひとりのために設けられた場だった。
 
宮野先生という素晴らしい女性との関係性の上で、そのひとの素晴らしさがさらに輝きを増していた。それは、先生とのエピソードを通して語られるその人自身のバックグラウンドや信念や抱負から、想像に容易かった。
 
 
 
いつも飄々としていて一番子供みたいな顔ではしゃぐくせに、急に真面目な顔で語りだす平井先生。不器用な分、自分のこころの機微をしっかりととらえて頑固にそれに従う小笠原先生。そしてその間に、ふたりに学問的にも日常的にもするどくツッコみ、ふたりにとてもとても好かれていた宮野先生。
 
 
互いが、互いに見せるあの顔が、好きだった。
対等に渡り合える仲間がそばにいることの幸福を、羨んでいた。
 
 
 
手を伸ばしても届かないところで、ずっと3人で、議論に熱をあげていてほしかった。
 
 
 
ひとり、ホテルへの道を歩いていた。
台風17号が日本列島に近づいていた。きっとわたしたちが居酒屋でたむろしている間に強風が吹き荒れていたのだろう、雑木林に囲まれた坂道は、細かく切れ切れになった枝葉がびっしりと落ちている。それを踏み、慎重に足をすすめながらこころのうちを確認した。
 
もう、誰に対しても羨望も嫉妬ももっていない。みんながちいさな死を経験し、等しくその死は敬意を払われるべきだと感じている。
 
宮野先生によって引き出された各々の一面というものはちいさな死によってこの世から去ってしまったけれど、それを持っていたという事実はその人に影響を及ぼしつづけるだろう。
ひとりが無数にもつほかの面にも、きっといい影響を与えるに違いないと期待している。

それはきっと、これからのわたしにも。
 
足元の枝は歩きにくい。踏んだら折れるかな、と思うのに、水に浸されふやけているようで、踏んでもしなるだけで折れなかった。ちいさな枝葉の上を、滑って転んでしまわぬように慎重にゆっくり進んだ。すこしずつ坂を上った。
 
 
 
嵐が来る、そして去って行く。
 
 

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