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宮野真生子先生の訃報によせて

※こちらのnoteは事前に堀之内出版 小林えみ様を介して、ご遺族の掲載許可をいただいております。


宮野真生子先生が7月22日に、42歳で他界されました。
 
わたしは福岡大学の出身で宮野先生のもとで4年間勉学に励んでおりました。
 
突然の知らせに、言葉を失っています。
 
宮野先生は、誰からも慕われた、聡明という言葉をかたどったような女性でした。
 
 
正直、一昨日、同学科の先生から珍しく電話がかかってきたとき、「宮野先生が亡くなられてしまったのかもしれない」と思いました。
 
電話をとるのが怖くて堪らなかったです。
 
その翌日、近親者の皆様のみで執り行われた告別式に、先生のはからいで列席をお許しいただき、直接会うことができました。
 
葬儀場の真ん中に飾られたお写真には、溌溂とした先生の笑顔が写っており、それはまさにこれまで多くの人を魅了してこられたものでした。
 
 
言葉が浮かばず、ただ涙にくれるばかりで、気の利いたセリフひとつ投げかけることができませんでした。
 
4年も同じ校内で過ごしたのですから、思い出はたくさんあるはずなのに、悲しさに覆われてうまく思い起こすことができなくて。
 
 
 
宮野先生は、九鬼周造を専門としながら、恋愛や家族や性といった普遍的なテーマを哲学から見つめる、日本哲学研究者でした。

 
1年生のときは、同学年全員が出席する講義で風土について学びました。
 
2年生のときから、授業はとっていないのに、好きすぎて勝手に宮野先生のゼミに行くようになりました。
このとき開講されていたのが、3・4年生向けのゼミで、わたしは年上のおねえさんたちに混じって、単位がもらえるわけでもないのに毎週ゼミ棟へ通っていました。
 
この年、ゼミで扱ったのは、前期が竹内整一さんの「日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか」、後期が鈴木翔さんの「教室内カースト」でした。
 
 
前期では、「さようなら」という言葉をとおして日本人の死生観に迫りました。
 
後期は、参考書をビブリオバトルを使って選書するというユニークな方法が採用されました。もちろん、わたしも張り切って参加した結果、有難いことに勝ち取り、高校時代に読んでいた「教室内カースト」を使用できることになりました。
どうしてカースト制度がおきるのか?カースト制度は実際どのような構成になっているのか?など、ゼミ生全員の実体験を振り返りながら教室内にあるちいさな社会を紐解きました。
 
ひょっこりあらわれたまだ20歳にも満たないわたしを、ゼミ生の先輩方は宮野先生と同じように歓迎してくださいました。
 
宮野先生のもとに集まる方々は、みなさん、家族や恋愛などわたしたちにとって身近で、しかし複雑で繊細なテーマに高い関心を示していました。
乱雑な生活を送っているとついつい見落としてしまいそうになる日常のなかのちいさな気づきや痛み、違和感に目を向けられるやさしさがありました。
 
ひとりひとりのお名前をフルネームで思い出すことが、いまはもうどうしてもかなわないのですが、先生に似た真剣なまなざしと凛としたお顔をされていたことだけはしっかりと覚えています。
 
 
先生は、熱心な教育者でもありました。
 
 
同学科でわたしが3年間所属し続けたゼミの小笠原先生と共同で、哲学カフェというものをスタートさせました。
 
哲学って聞くと、とてもお堅いイメージがありますが、本当はもっと身近だし、生きるうえで大切な武器となるもの。
それをもっとひろく学生たちに知ってほしいという思いから(というのはわたしの憶測ですが…)隔月でひらかれていたもの。
 
毎回、漫画や小説・映画のなかのワンシーンをもちいてみんなでそこに隠れた哲学を掘り下げました。
 
わたしが提案して、テーマ選定をした回もありました。そのときは漫画「聲の形」をもちいて「平等って誰のものか?」について議論しました。
 
 
また、学外を飛び出し、九州産業大学の哲学研究者である藤田先生と一緒に、合同ゼミという取り組みにも情熱を注がれていました。
 
福岡大学と、九州産業大学、さらには九州、ときには関西の先生や学生さんまでも巻き込んで、隔月、家族・性・愛のテーマで研究会を開催。
 
他大学の生徒との議論も新鮮で、開催される月には、バイトのシフト希望をだすまえに合同ゼミの予定をチェックしていました。
 
ちょうどその頃、わたしは福岡ではじめてレインボーパレードを開催するための有志学生団体に所属しており、それをきっかけにして、LGBT(性)をテーマとした回も催されました。
 
そちらの様子は、2016年に藤田先生、宮野先生の連名で刊行された「性 (愛・性・家族の哲学 第2巻) 」にも収録されています。
 
 
すこしではありますが、宮野先生のお仕事のお手伝いができたことが、たまらなくうれしく、本を書店で購入したときの頬のゆるみは、いま思い返しても自然と口元に戻ってきます。
 
 
3年次には、恋愛哲学の講義をとり、宮野先生のはじめての書籍である「なぜ、私たちは恋をして生きるのか―「出会い」と「恋愛」の近代日本精神史」を著者である宮野先生と読むというぜいたくな時間を過ごしました。
 
宮野先生の講義は他学科の生徒にも大人気で、特にテーマが恋愛となれば、いつも教室は一番収容人数が多い大教室でした。
 
たとえ日常的に哲学にふれておらずとも、人生に起こりうるシーンを用いながら丁寧に説明してくださるので、他学科の学生さんにとっても分かりやすかったに違いありません。
 
 
そして3年の後期になり、卒業論文のテーマと、監査となる先生を選ぶ時期になりました。
 
わたしは先生のもとで、わたしがずっと人生をとおして考えたいテーマである「離婚」と「LGBT」を取り上げて論文を書くことにしました。
 
これは、2年前から決めていたことでした。
 
 
実は、わたしが2年生のとき、勝手に参加していた宮野ゼミで、宮野先生はすでにご病気を患っているということを学生たちに話してくださっていました。
 
その頃はまだ、そんな影はちっともなくて、ゼミ生全員が、なんと言えばいいか分からない、と戸惑っていました。
 
そんなわたしたちに、宮野先生は、ご自分の病状のお話ではなく、わたしたちにも等しく病気になる可能性はあるから、自分の体を注意深く観察しておくことの重要性を説いてくれました。
 
 
そのときに、わたしは、「この人のもとで卒業論文を書こう」と決めていました。
 
 
近親者で大病を患った者がいないわたしにとって、病気というものがどれほど大変か、真には分かっていなかったと思います。

また、宮野先生はいつも気丈に振舞っていらっしゃったので、きっとゼミ生以外の生徒で、そのことを知っている者はいませんでした。
 
 
2年生のとき、「ということで、休むことがあると思う」とおっしゃった言葉のとおり、休むことはありながら、先生は、福岡大学の先生であり続けて、わたしの不安をよそに、願通り4年時には宮野卒論ゼミ生になることができました。
 
 
その間、先生がご病気についてわたしに話してくださることは、2-3度あったかどうか…というくらいです。
 
卒論となると、普段のゼミの倍の倍ほどやらねばならないことが増えますし、その分、先生の負担も増えます。
 
 
スタートして最初に、ほかの卒論ゼミ生は知らない子もいたので、改めて説明してくれました。
 
不出来な生徒であったわたしたちですから、きっとたくさん頭を悩ませてしまったことと思いますが、わたしたちのほうが、宮野先生の状態でなにか遅れがでてしまうということは一度としてありませんでした。
 
 
それがどれほどの努力と強さによってなされていたのか、呑気なわたしは「宮野先生、元気そうでよかった」と思うばかりで、推しはかることもできていたかどうか疑問です。
 
ただ、やはり、病気について知る前の1年次の出会ったばかりの先生と比べて、やはり体力が落ちているというのは、明らかでした。
なんと労わればいいのか、さっぱり分からず、ただ疎くてもなんでもいいからこの卒業論文だけは絶対に完成させようと、口をつぐむ度に自分へ言い聞かせいました。
 
 
わたしはなんというかすごくふざけた奴なので、ほかの哲学の先生たちに馴れ馴れしく接するきらいがあったのですが、宮野先生に対してだけは違いました。
 
先生はわたしが一生努力しても追いつけないような深い魅力がありました。憧れの女性でした。
 
他の先生には「カラオケ行きましょう~」とか「ランチ~」とか言いながらノックもそこそこに研究室へどやどやとやって行っても、なんの気も起らなかったのに(先生からしたらとても失礼だったのは承知です…)、
宮野真生子のプレートがかかった研究室の前にきたときは、「在室」の文字を見ると背筋がぴんとはって、ノックまでの数センチの間に息をのむような緊張感がありました。
 
 
とても親しみをもって伴走してくれる先生。だけど、どうやっても手が届かない先生。
 
 
そんな先生との卒業作成の作業は、毎週こころが痛くなるというか(笑)緊張の連続で大変でした。
いままで2年生からずっと宮野ゼミへ押しかけていたわたしですが、それまでは公式のゼミ生ではないので、宮野先生から評価が下ることはない、という甘えのもとで好きなように振舞えていました。
 
卒論をとおして、わたし自身に憧れの先生から指摘がはいるというのは、臆病なわたしにとって、毎度心臓に氷を滑らせるようなここちでした。
 
 
けれど、それでも、図書館の4階にある個室で、先生と一緒に静かにパソコンと向き合い、本のページをめくるとき、どこか誇らしさがちいさな部屋いっぱいに広がっていました。
 
 
4年間、この人の講義を受け取るばかりだったのが、いま、わたしは論文をとおして会話をしているんだ、って。
 
 
まあ、そんなかっこいいこと言っても、卒業論文の出来が良くなったわけではないんだけど(笑)
 
それでも無事に書き上げ、目立ちたがりなので発表会まで登壇し、わたしの卒業論文との格闘、そして宮野先生との共同作業は幕を下ろしました。
 
 
最後に、頑張ったご褒美に、と先生が福岡の薬院(ちょっと大人のまち)で美味しい水炊きを卒論ゼミ生に振舞ってくれました。
 
いつも焼き鳥1本60円の、大学裏のやっすい居酒屋で、カシスウーロンしか飲んでこなかったわたしは、あのとき飲んだ日本酒の味が正直、よく分からなかったけれど、宮野先生が上機嫌だったので、それだけで幸せでした。

書き上げた論文のタイトルは「離婚とLGBTをとおしてこれからの家族の形を考える」。
後に、わたしが仕事の転機を迎えるときにこの論文の存在が大いに効くことになるのを、そのときはまだ知りませんでした。
 
 
宮野先生との思い出をもうひとつ。
わたしは新卒フリーランスという珍しい経歴ですが、新卒というカードを就職につかわないというのに反対を示したのが、宮野先生でした。
わたしの周りはちょっとずれているのか、思い返しても、難色を現したのが宮野先生以外いません。
 
 
先生は、京都大学、大学院とつづいて研究者の道、指導者の道に進まれた方で、いわば宮野先生も新卒のカードを捨てたひとりです。
 
その立場として、きっとわたしの進路を案じてくださったのだと思います。
 
 
ただ、だからといって、応援してくれなかったわけではなく、卒業してからもゼミに招いてくださったり、わたしのことを後輩たちに「こんな道だってあるんだよ」と紹介してくださったり、
直接言葉として受け取ったわけではないのですが、わたしがいまのような活動をしていることをとても喜んでくださっていました。
 
 
こうやって書き連ねると、真面目な思い出ばかりに感じられますね。
もっと、飲み会で恥ずかしい恋愛話をしたとか、先生たちの掛け合いとか、くだらないけど笑みがこぼれる時間がたくさんあったのですが、いまはうまく思い出せません。
 
 
哲学と出会えて、本当に良かったなと思っています。
 
わたしも先生のように、もっとたくさんの人に哲学を日常に取り組む活動がしたい。
そう思って、いつか、宮野先生を含む哲学研究者たちがもっとラフにネット上で文章を書くような企画をたてられたら、なんてよく妄想していました。
 
先生と一緒にお仕事をしてみたかった。
お家にも遊びに行きたかったし、京都で一緒に哲学の道を歩いてから、西田幾多郎の家にも行きたかったし、少女漫画を一緒に読んで、「凪の暇」の感想を言い合いたかった。
 
わたしは大学が大好きだったから、卒業生で遠方に住んでいる割には、よく大学に帰っていたものの、それでも、まだもっと会っておけばよかったのにという気持ちが拭えません。
 
 
最期に会ったのは昨年の10月、わたしが卒業生として在校生向けの就活イベントの登壇に呼んでいただいたとき。
なにを話したのか、全く、全く思い出せないのです。
 
一言くらい、労いの言葉が言えたらよかったのに。
 
 
18歳で出会って、もう今年でわたしは26歳になります。
8年。
ちっとも、あの憧れの女性に近づけている気がしません。
追いつけないまま、もっと遠いところまで行ってしまわれました。
 
 
 

9月に、先生の新しい本が発売されます。
 
在学中、本をとおしてわたしたち学生が、時間を超えて、西田や和辻、九鬼、さらには国を超えて、アラン、ドストエフスキー、デカルトまでとも議論できたように、今後、わたしたちも変わらず宮野先生と議論することでしょう。
 
ただ、卒論ゼミでの、わたしが書いたものに目を通すのを待っているときの、あの、ぴりりとした緊張は、永遠になくなってしまったと思うと、あれは好きな時間ではなかったのに、惜しいなと思わずにいれません。
 
 
 
上野駅近くのカフェの窓際の隅の席で、交差点を見下ろしながら、あらためてテキストで届けられた宮野先生の訃報のお知らせに涙が止まりませんでした。
昨日の告別式であんなに目を晴らしても、つきることはありません。
 
この喪失感が癒えることはあるのでしょうか。
 
 
昨日、和歌山駅で、平井先生がわたしに「宮野先生だったら、泣くんじゃないよ、と言うよ」って。
 
そうは言われても、泣いてしまうのはしょうがないのだけど、泣きながらでもいいから宮野先生が生涯をとおして教えてくださったことを体現していきたい。
 
 
いまのこの気持ちがなんなのか。
喪失の過程という枠組みにとらわれず、わたし自身の本質を見つめて。
 
哲学しなきゃ。
宮野先生が、最後の最後までやりたかったものなんだから。

堀之内出版からのお知らせ:訃報(宮野真生子様)
 

 

 

 

サポートしてくださったお金は日ごろわたしに優しくしてくださっている方への恩返しにつかいます。あとたまにお菓子買います。ありがとうございます!