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「無理しないでね」という言葉は優しさじゃなかったかもしれない。

月島雫も言っていた。「自分より頑張っているやつに、頑張って、なんて言えないよ…」
頑張っている人を目の前にして、頑張ってね、とはなかなか言えない。せいぜい私は「無理しないでね」と添えるだけだ。それがどれほど薄い言葉か分からない。
 
曲がりなりにも言葉を仕事にしているから、なるべく半端な言葉は使いたくない。嘘も、できるならつきたくない。どれだけ周りが「可愛い~」と口にしていたって、自分がこころから同調していなきゃ気付かないふりしてそっぽを向いて過ごす。そうやって自分のこころと言葉を連動させようと努めてきたけれど、無意識に、重みなく使ってきた言葉たちもあった。「無理しないでくださいね」そう言っているとき、自分で自分を大事にしてね、という気持ちはありつつ、それと同時に、もうほかになんて声をかけていいか分からないから使っているように思う。
 
 
「頑張れない」ことがコンプレックスだ。わたしははっきり言って怠惰で、苦手な言葉は「努力」。どう考えたって少年漫画の主人公にはなれない。慎ましく暮らしていれば、いつかドラマチックな物語と、理想ぴったりの伴侶が現れるような気がしている。古びた少女漫画と同じくらいかび臭い。現実は甘くない。それは誰にでも等しくて、周りで過酷な環境に身を置いている人もたくさん見てきた。でも、わたしよりずっとマシだった。だって、彼らは頑張れているから。頑張れている、が彼らの免罪符になっていると感じていた。頑張れることがなにになるんだろう。成果が出ないと、きっと年を重ねてから、頑張った伝説なんて飯を食う足しにひとつもなってくれないはずだ。だけど、その、最低ラインの「頑張った」さえもできない自分がいた。詰ってみても、そいつはちっとも頑張れやしない。
 
「無理しないでね」というのは、優しさの仮面をかぶって、本当は、自分が言いたいことを口にしてしまわないようにするためのストッパーだ。わたしは彼らに頑張ってねといえるような人間じゃない。行動で示せることが時に言葉を凌ぐことも、成果で殴るほうが相手のためになることも知っている。だから、わたしが「無理しないでね」というのは、その人のためを思っての精一杯じゃない。逃げているのだ。どこかで、「あの人はあんだけ頑張っていてすごいね」「わたしにはできないね」「きっと大変なんだろうな」「せめて、無理しないでほしいな」って思っているんだ。リングサイドに駆けよらず、試合会場にすら行かず、テレビ越しにポテチでも食って寝転びながら思っているんだ。それで励ましているのは相手じゃない。自分が、頑張れない小さくて可愛い自分が、間違って彼らの隣に並んで、その小ささと頼りなさに気付いて落ち込んでしまわないように、「無理しないでね」と声をかけるだけのポジションに縫い付けているのだ。
 
 
頑張っている、って傍目から見たら格好良くないときだってあるだろう。その真っすぐさが裏目に出ることもある。免罪符は、案外簡単に執行期限を過ぎてしまう。大した価値はきっとない。それでも、何かに没入できる。それはもう才能だと思う。幼い頃には特別じゃなかったそれが、いつの間にか特別なことで、それが欲しいと足掻く人までいるようになった。わたしにも、没入できるそれがあった。たぶん、頑張れていたときだってあった。このコンプレックスと、いつまでもよろしくやっていくのは最高にダサいと思っている。「無理しないでね」じゃなくて「わたしだってやるよ」って、挑戦的に笑えるように、ちょっと頑張ってみようかなって、思う。

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