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意識をジャンプさせること、ジャンプさせすぎないこと。

大喜利が苦手だ。

別に芸人ではないのだから苦手でも生きていく上ではまったく支障はないのだが、大喜利が上手いということにあこがれはある。なんかセンスありそうだから(安い理由)。

一般的に大喜利が有名になったのはやはり「IPPONグランプリ」の存在だろうか。「ダイナマイト関西」というイベントのほうが古いと思うが、地上波ゴールデン放送に比べると地方のイベントということもありやはりマイナーだ。
その名もストレートに「ケータイ大喜利」という番組もあったが、これはこれで一般投稿番組ということもあり、ある意味マニアックな存在だった。

大喜利で爆笑を取る答えは、やはりいい意味での裏切りがある。
例えば実際にIPPONグランプリであった答え。

「口臭のきつい彼を気づかせる方法は?」→「言う」(有吉弘行)

普通の方法であれば「少し距離を取る」
いかにもな答えであれば「手旗信号で伝える」
などがありそうな中でまさかの「言う」。
どんな遠回しなやり方がくるのかな~と思わせたところに「遠回しにしない」という裏切り。

「そこそこのウソをついて下さい」→「ゴリラの本当の発音はギョリラ」(堀内健)

これは「ウソ」というだけの緩い縛りだからこそ、逆に広がりすぎて難しいお題に見える。そこそこ、というのがキモなので真実と少しズラせばいいのかな、「●●は実は●●だ」とかそういうのかな~と思ってたらコレ。ゴリラの発音自体を気にすることがないわけだから完全に予想外。

こういった裏切りを考えつく構造というのは正直よくわからない。
無理やり理屈を当てはめるなら「意識のジャンプ」ということだと思うのだが。
Aを想像しそうなところにBを出す、という感じか。ただこれがEくらいだと当たり外れが大きくて、Nまでいくともはや何が何やらわからない、という危険性もある。ちなみに野性爆弾のくっきーは下手したらZまでいく

ジャンプ幅が大きすぎるとついてこれる人が少ない、ということだ。
逆についてこれた人だけが死ぬほどウケるということもあると思うが。

この「意識のジャンプ幅」に関しては創作全般に言えることだと思う。
分かり切っている展開を分かり切ったようになぞるより、予想もつかない展開のほうが面白い。とはいえ意外さだけを求めて急に世界感がぶっ壊れたりすると視聴者読者側もついていけず酷評される。漫才やコントで例えるとジャンプ幅がそれなりのものが「正統派」、幅が広がりすぎる恐れがあるのが「シュール」というわけだ。

広告となると基本的には一般向けに分かりやすくしないといけないのであまりシュールまではいかないことが多い。シュールすぎてどうにもならないところまで踏み込むのは日清くらいではなかろうか。カレーメシとか。

ちょうどよくても物足りず、飛びすぎても理解されない。しかしシュール路線には「センス」「世界観」という言葉がついて回るのであこがれられやすい。
そして結果「ちょうどいいシュール」を求めてしまうのだった。

嗚呼。


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